リアルファー反対なのもわかるけれど、今後の話をしましょうよ

長年大切に使っているリアルファーの製品がいくつかあります。祖母の形見であるミンクの帽子とショール(何十年も前の物かも)、10年近く前に買ってもらったレッキスファーのコート。それから、数年前まで着ていたコートの襟周りについていたラクーン・フォックスのファーは今はティペットにリメイクして使用しています。挙げた所持品数がそれほど多くない(そしてどれも古い)ことからもわかる通り、「毛皮が好きなのでよく購入します」ということではないのですが、防寒という点でこれ以上に優秀なものを私は知らないので、持っているものに関してはなるべく長く使えるように出来る限りの工夫をしています。今は動物愛護の面などからもフェイクファー(エコファー)が流行っており、私自身も近年は特に毛皮製品を購入していませんが、今持っているものについては私は今後も大切に使いたいと思っています。

 

リアルファーの使用を反対する人が多くいることは、理解します。私もリアルファーの製造過程については思うこともありますし、肉や魚が生きている姿からスーパーに並ぶパック詰めになるまでの過程もそうですし、切り身になっていない魚をおろすときにも躊躇いがあります。私はそれでも身に着けているし食べているけれど、そこで「食べない」「身に着けない」という選択をする人がいることもわかります。そのような選択をすると「じゃあ革製品は?羽毛布団は?野菜はいいの?卵は?」などと言われることがあるかもしれないけれど、自分の中で「これなら良い」と思える線引きは感覚的なものだと思うし、その選択をするのに他人に対して矛盾なく説明できなくても良いものだと思っています。ただしそれは他人にそれを押し付けないことが前提での話です。現時点で日本では一般的に購入が可能な状態なのですから、それぞれの選択が尊重されて良いと思っています。

 

先日、私が身に着けているリアルファー製品をみた友人に「見た目が可愛いからってリアルファーはダメだよ、フェイクファーも今は見た目も肌触りもリアルだし十分だよ!死体を身に着けているみたいで嫌じゃないの?私はリアルファーなんて絶対に買わない!フェイクファーにしなよ!」などと強い口調で延々とリアルファーを非難されるとともに、フェイクファー製品を執拗に勧められました。私が長年大切に使っている物に対して突然敵意のようなものを向けられたことに驚いたし、内容もあまりピンと来ませんでした。私は「毛皮は防寒にとても適している」と思っていましたが「装飾として身に着けている」という感覚がなかったのです。勿論アパレル商品ですからデザイン性もありますし華やかで素敵なものだと思いますが、個人的には「見た目は少しゴツいけど暖かいから…」と実用性重視で身に着けていたものなので、「毛皮製品を身に着ける人=自分を着飾るために動物を見殺しにして死体を身に着けている人」みたいな発想があまり自分の中での毛皮に対する感覚とマッチしなかったのです。彼女の中では「毛皮=とても実用的で優秀な防寒具」という大前提が抜け落ちていたように思います。私は彼女の主張に納得するよりも、色々と決めつけられた状態で非難されたことによる不快な気持ちが大きかったです。どこかの受け売りでリアルファーのデメリットとフェイクファーのメリットだけを見て感化されたのでしょうか。彼女にとってはそれが正義だったかもしれないけれど、私にとっては一方的で感情的な暴言でした。

彼女は私にどうしてほしかったのか疑問です。「そうだね!毛皮は良くないね!もうこれは捨てます!」とリアルファー製品を捨てて、類似した形のフェイクファーの製品を身に着ければ満足だったのでしょうか。まだこれからも十分に着用可能な状態の毛皮製品を無駄にして、なんらかの形で環境破壊に加担しているかもしれないフェイクファーを身に着けることが何に対して良き影響をもたらす行為なのでしょうか。

 

今後の生産や購入をどうしていくべきかという問題については私も色々と思うことはありますが、ここでどうすべきかと答えを出すことは私には難しいです。毛皮にメリットとデメリットがあるようにフェイクファーにもメリットとデメリットがあり、どういった改善が可能か不可能か…不勉強な状態で「こうすべきだ!」という判断は私にはできません。しかし、一部のハイブランドやセレブがリアルファーからフェイクファーへ切り替えたことからも、現状をしっかり調べて動物愛護や環境問題に真剣に向き合う層よりももっと浅いところで、私を非難した友人のようにトレンド感覚で「リアルファーは悪!今時はエコファーがいけてる!!」みたいに主張する風潮があるように思いますし、ネットで出回るわかりやすくショッキングな映像なども手伝いそれはもっと広がるのでしょう。

そのトレンドにより、毛皮反対派の主張のメインが"今後どうすべきか"という議論ではなくて「毛皮製品を身に着けている人への非難」という短絡的な攻撃になってしまうことを私は恐れています。所持している毛皮を手放す,破棄する,しまい込むしかないような状況は、動物愛護にも環境保護にもつながらない、ただの感情的な制圧でしかありません。

 

リアルファーの販売・購入に肯定的であれ否定的であれ、またはそのどちらでもなくても、「既に持っているものに関しては大切に使いましょう」は共通の認識で良いのではないかと思うんです。毛皮を愛用するひとの中には、その目的が装飾であれ実用性であれしっかりお手入れをしたり時代や年齢に合わせてリメイクしたりと、本当に長く大切にされている方が多くいらっしゃると思います。私が所持しているものもどれも古い物だし、祖母の形見なんて古すぎていつのものかわからないくらいですが、毛艶もよく裏地も綺麗な状態なので今後も長く使いたいのです。それは今後もし仮に毛皮の生産や販売に制限が設けられたとしても同じです。所持している以上は、無駄にしまい込んだり捨てたりすることこそ愚かだと思います。

 

今所持している人を責めるのではなく、今後の話をしたいですよね。

 

バスケのブーイングは意地悪じゃないのよ~という話

プロバスケの試合観戦後にSNSで試合について検索していると、ちょくちょく見かけるのがブーイングの是非。

最初に言っておくとバスケの試合で相手のフリースロー時に観客が行う「ブーイング」というのは、選手やジャッジに不満や非難を示すための野次や暴言のようなものではありません。主にゴール裏を中心に声や物音を立てたり、あるいは敢えてシーーーンとしたりして、相手チームのフリースローをする選手の気を逸らせたりプレッシャーを与えて邪魔をしてやろうぜ!という応援文化の一種です。(暴言や差別・侮辱のような意味合いの物を掲げることはないですし、フラッシュを向けたり物を投げるだとか本当にプレーの妨害になるような行為はNGです。)ブーイングをしている人の多くは相手チームに敬意をもって楽しんでいますが、「相手の当然の権利だから邪魔をしたくない」「相手の失敗を願うのは良くない」などそれぞれの理由でそれに参加しない人も勿論います。

私はバスケ観戦で初めてブーイングを見た時、今まで認識していた罵詈雑言の"ブーイング"とは違って「応援しているチームに加勢する」というような参加型のエンタメ感があって面白い文化だなーと思いました。

 

海外ではこのような面白いことをするファンも。

 

そして日本のBリーグでも、名物化しているブーイングなどがあります。

basket-count.com

 

ブーイング否定派の意見も理解します。バスケにおけるブーイングという文化を知らずに初見でそれを見たのならすごく意地悪なものに見えても仕方がないし、「相手の失敗を願って、失敗したら喜ぶ」というのも普段生活している上での感覚でいえば褒められたものではないです。だから私はブーイングをしない主義の人は当然しなくて良いと思っています。

ただ、個人がしないという選択をしたとしても、会場ではフリースロー時に大きなブーイングが当然起こります。それに対して「この人達は相手を貶めることで楽しんでいるんだ…」という認識のままジッと黙っているのは少なからず不快な気持ちを抱くと思うし、ブーイングしてる方もそう思われてしまうのは不本意だと思うのです。そこで、今回は「私がどのような意識でブーイングを楽しんでいるのか」について書いてみようと思います。これは私個人の考えですが、ブーイングしない派の人達の不快度がすこしでも軽減し、観戦がより楽しめますようにと願いを込めて。

 

私にとってのブーイングは、「相手が手ごわいからこそ、ディフェンスの1つとして好きなチームに加勢する」という、好きなチームへの応援・そして素晴らしい相手チームへの敬意のような気持ちの表現でもあります。それに加え、「どうせこちらが何をしようが集中してれば入るだろうけど…とりあえず楽しく悪あがきして邪魔してみよう!」という遊び心だったり、もし外したら「私達ファンのブーイングが外させたよね!」というしょうもない冗談だったりとか、そんなふうに観戦を楽しむ方法のひとつです。そこに相手チームの選手への悪意や憎悪はないし、選手たちだって勿論それをわかっているからこそなりたっている文化だと思っています。相手がミスした時に起こる拍手も、そのミスに対して嘲笑したり馬鹿にしたりする意味合いではなく、相手のミスにより応援しているチームにラッキーなチャンスが生まれたことに対して拍手をしています。これも”手ごわい相手”と認識しているからこそ相手のミスが「ラッキー」なわけです。決して相手チームに対して悪意を持ってやっているわけではありません。

 

だから、観戦におけるマナー・ルールを守って楽しくブーイングしている人達のことも非難したりせずにどうか尊重してほしいと思うんです。「近くにいた〇〇ファンの人が足踏みで音を鳴らしてブーイングするのまじでやめてほしい!子供が真似する!」(※足の踏み鳴らしは会場によってはアナウンスで煽るくらい一般的な方法です)とか、「初めて観戦にいったけどブーイングとかバスケファンって最悪ですね!」みたいなことが書かれているのを見ると、きちんとマナー・ルールを守って楽しんでいる人達が悪者・迷惑扱いされていることに遣る瀬無さを感じます。

特にお子様連れの方は教育上も気にされる方が多いと思いますし、「子供にはブーイングさせないようにしている」ということも結構あるように思います。でも…願わくば、もしお子様がブーイングを面白がってやりはじめた際には「良くないことだから止めなさい」ではなくて上記の通り「それは相手への敬意をもってするもの。」「意地悪な気持ちで失敗を煽るならしない、敬意を持って楽しく応援できるならしても良い。そしてこれはバスケ観戦での文化だから普段の生活でお友達にはしない。」と…是非そんな風に教えてあげてもたえたら嬉しいです。勿論、それぞれのご家庭の方針に口を出す気はないですが…小さいうちは区別が難しいし、お友達に意地悪してしまったら…と考えると「よくないこと」と教えるのも選択肢としては良いのかもしれませんが…。

 

以上で述べたことはブーイングを推奨・強要する意図ではなく、同じ空間で同じコンテンツを楽しんでいるもの同士としてお互いに尊重し合いたいという気持ちで説明した限りです。お子様に限らず全ての観戦客に言えることですが互いの正しい意図を理解した上で「自分はしない」「自分はする」と選べた方がどちらにせよ気持ち良く観戦できると思うのです。色々な応援スタイルが気持ちよく共存できると良いですよね。(全般的な話でなく個々に見てしまうと、本当に悪意・敵意むき出しで双方の選手やファンに敬意を欠いた観戦態度の人も悲しいことに時々居るんですけど…それはバスケの応援文化云々ではなくてその人個人の問題ですので今回は敢えて触れていません)

 

余談ですが、試合観戦での不快な経験という繋がりで…

バスケは基本的に「ホームVSアウェー」ですから、会場自体(演出や会場のMCなど)がホームの応援をしますよね。会場のスタンスとしてはどこも基本的に「アウェーの選手・ファンのみなさん、ようこそ!今日はよろしくね!でも勝たせてもらうぜ!」と温かく迎えてくれる感じではあるけれど、演出の特色とか応援の雰囲気はチームにより結構異なるもので、アウェーに行っても勝敗に関わらず「気持ち良く応援できた!素敵なアリーナ!」と思う事もあれば、「このアリーナはちょっと嫌な感じだったな…」と思ってしまうこともあります。簡単にいうと「ホーム上げ」の方向性が悪意なくとも「アウェー下げ」みたいなニュアンスになってしまって、不快になることがあるのです。勿論、基本的に歓迎する態度でいてくれているし悪意はないと理解しつつも、私もアウェーのアリーナで一度だけ嫌な気持ちになってしまった経験があります。それからは自分が応援しているチームのホームゲームでは常に「アウェーのブースターさんたちが勝敗問わずまた来ようと思ってくれるといいな」と…特別何かするわけではないですけれど、相手チーム・ファンへの敬意を欠くことがないよう応援する際の言葉や態度に気を付けています。

 

「子供だけに優しく」ではなく「人に優しく」ありたい

 

「子供優先」を強要されて、大人の自分が楽しむ権利を奪われてしまった経験はありませんか。私はあります。テーマパークのオタクをやっている人、ファミリー優遇な空気の現場に行っている人、スポーツ観戦が趣味の大人とかでも経験しがちなことかなぁと思います。

(先に断っておきますが、これは「子供への嫌悪」や「子供に優しくすることへの否定」ではなく、「子供優先」「子供だから許す」を赤の他人に強要して他人の権利を奪う大人に対して疑問を抱いているというお話です。)

 

初めてそれを感じたのは、高校1年生の頃に友人と行った動物園でのことでした。私はライオンが大好きなので、窓越しに間近にライオンを見ることができるライオンバスに乗ることをとても楽しみにしていました。ところが、実際に乗車をすると「お子様を前に入れてあげてください」というアナウンスと共に窓と私達の間に子供達が乗り込んできて、ライオンが来ると立ったりしゃがんだり手を伸ばしたりと私たちの視界を遮ったのでした。保護者の方々はご自分の視界なんてどうでもよくて、お子様たちが楽しめればそれでよかったのだと思います。だけど私たちは私達が楽しむために行ったから、子供料金100円で楽しめた子供達とそれよりも高い大人料金(高校生~)360円を払ってただ知らない子供達の後ろに突っ立っていただけの自分たちを思うとなんだか蔑ろにされたようで悲しくて、二人してすごくテンションが下がってしまったことを憶えています。当時は15歳、お小遣いをバイト代だけで賄っていました。大人扱いもされるし子供扱いもされる、そんな年齢だからこそなおさらこんな気持ちになったのかもしれません。

それからは「当人の厚意」という域を超えて他人の権利を奪ってまで強要される「子供優先」という状況に疑問を抱き始め、今も時々モヤモヤすることがあります。

 

私も子供にはそれなりに優しくする習慣があります。子供に限らずとも、他人に親切でありたいと思います。だけどそれは自分の権利を妨げない・あるいは自分が良いと思える範囲での損失においての話であり、義務ではないと思っています。チケット代を払うことや早い時間から整列して待つことによって正当に与えられたはずの自分の権利が見ず知らずの親子に不本意な形で奪われてしまうのは、気持ちがよくありません。キッザニアのように「子供のための施設」であって「大人はあくまで付き添い」と明確に定められている施設であれば良いのです。けれど、大抵の施設はファミリー層だけでなくカップル層や友人同士など「大人料金」を払う年齢の人のみで構成されたグループの来場をターゲットとした広告・企画も打ち出しています。そんな中で、実際に大人だけで行ってみたらあっちでもこっちも「子供優先」「子供優遇」とされると、私たちは笑顔で「どうぞ」と譲りつつも内心は「私達もこれ楽しみにして来たんだけどなー」と残念な気持ちになってしまいます。大人の方が客単価が高いのに、大切にしてもらえないどころか不本意な「子供優先」で不当な我慢を強いられたり、運営側の「子連れ様接待」に巻き込まれたりしているようで、客として蔑ろにされているようで少し寂しく感じます。「ファミリー層を呼び込むために家族連れに優しくしたい」というのは通常の待遇+αとして運営がやるべきことであり(お子様への特典を付ける・対象年齢を定めた子供向けのイベントを実施するなど)、そこにいる権利があるはずの一般客に対して「お子様のために前をあけてあげてください」「お子様に譲ってあげてください」というのは違うと思うのです。

 

また、子供を持つ親はあらゆることを「子供優先」で自分のことを後回しにして生活している人達が多いと思います。もうそれが染みついてしまっていて世の中のデフォルトが「子供優先」であるかのように錯覚することもあるかもしれません。そういう人からしたら列で子供の前に並んでいる人をみたら「なんで大人が?」と思うかもしれないし、子供を喜ばせるために付き添いとして出かけた先で大人がはしゃいでいるのをみたら違和感を覚えるかもしれません。ちょっとしたルール違反も「子供なんだからOK、許せない大人はちょっとおかしい」と思えてしまうのかもしれない。この文章も「これだから子供がいない人は…」と呆れながら読んでいるのかもしれません。しかし世の中には「子供中心」という軸ではない生活をしている人も多く居るのです。それは「自分中心」に考えて子供を蔑ろにするということではありません。大人も子供も人として尊重はしますが、必ずしも子供に甘やかす態度をとるとは限らないということです。それは本来、否定されることではないはずです。

 

「子供の頃に同じようにしてもらったはず」「自分が子供を産んだら同じようにするはず」ということから「お互い様」と言う人もいるかもしれませんが、誰もが子供の頃にそういう素敵な経験をしているわけではありませんし、誰もが親になるとも限りません。また、子供の頃に出来なかったことを自分で稼げるようになって初めて実現できた人達だってたくさんいるし、子供がいても「大人も子供も関係なく順番を守る」と教える親だって多くいます。他人が差し出してくれる厚意以上のものを強制すべきではないし、あらゆる施設の運営も、大人も対象としているサービスにおいて「お子様を優先して」という厚意を強制するアナウンスは、サービスに正当な対価を支払っている客の権利を蔑ろにしているように思います。

 

以前、本田翼さんが「子供に対して特に甘やかす態度はとらない」というようなことを言って一部から批判をされていましたが、人として尊重するという最低限のラインを守っていれば、あとは個人の自由であると私も思います。勿論、子供を甘やかしたい人が甘やかす分には否定はしないけれど、そうでない人が居心地が悪くなるような空間になるのは、「子供に優しい」環境をつくろうとするあまり「人に優しい」とは言えないと私は思います。「子供にだけ優しい」ではなく、大人も子供も男も女もそれらに当てはまらない人も同じように尊重できるバランスの良い人間になりたいし、そんな世界にしたいものです。

結婚を祝えなくても「本当のファン」と名乗っていい!という話

以前若手俳優のカノバレについて書いた記事と内容が一部かぶるけれど…

 

yogoretemoiino.hatenablog.com

 

今話題になっているarsのNさんの結婚についても色々と思う事があり、似たような話になるけれど今回記事にしました。

過去記事では主に「匂わせや画像流出など自業自得と言えるカノバレで炎上してるの馬鹿じゃねーの?」って話と「ガチ恋じゃなくても恋愛なんて知りたくないんだよ」っていうお話をしていますが、今回はそんな話にも触れつつ「結婚をお祝いできないのは悪いことじゃないよ、それでも胸をはってファンを名乗ってくれ」というお話のつもりで書きます。

 

経緯がどんなものであれ、交際発覚や結婚発表があれば寂しく感じたり落胆したり不快な気持ちを露わにするファンはいます。そしてそれに対して「祝えないなんて本当のファンじゃない」とか「自分が結婚できると思ってたの?」みたいな言葉を投げつける人もいます。今回もそう。でもそれらは見当違いで想像力がない発想だと思うんです。実際に「本気で自分が結婚することを望んでいた」と落胆したり嫉妬から相手に攻撃的な態度をとる人も勿論いると思うけど、結婚を祝えない気持ちでいるファンの多くは適切な距離感をもって応援してきた所謂”健全な”ファンだと思います。

私はお祝いできない彼女たちに寄り添いたい…。別に私はarsは「J-POPの中の一つとして好き」という程度のファンであって彼らのオタクなわけじゃないけど、お気持ち察しますと言いたいです。

(このブログはお二人の結婚自体を否定する内容ではありません、あくまで「結婚を不快に思うファンも居て良いんですよ」という話です)

 

これまでの匂わせについては検索すれば山ほど出てくると思うので具体的な例はここでは割愛します。私は彼のオタクなわけではないのであの匂わせ騒動で「彼女がいる」ということ自体にはダメージを受けませんでした。しかし私の中での彼の好感度は落ちました。「彼の彼女が自身のファンに向けた公式コンテンツで人気男性アイドルとの匂わせを発信している」ということだけでなく、「結果的にそれを容認してしまっている状態である彼」も含めてちょっと気持ち悪いなと。社会人経験も長い大人同士が、双方のファンの気持ちを蔑ろにした振る舞いを敢えてしているという印象。「arsのN」というコンテンツに雑音がまじってしまった感じは多少ありました。

 

アイドルもプライベートは自由なので、基本的にファンがそれを妨げることは許されないと思います。だけどファンはプライベートを”尊重”すべきであれど”応援”まではしなくていいと思うんです。「結婚しました」に対して「許さない!認めない!別れなさい!」と妨害する権利はないけれど、「おめでたい」とまでは思わなくていいのです。勿論、祝える気持ちを持てれば双方にとって楽ではあるけれど、寂しい気持ちや嫌な気持ちを抱いたって「ファンじゃない」なんていうことはありません。内なる気持ちが肯定的であれ否定的であれ受け止めることまでが出来れば十分なんです。

ファンはアイドル活動で見せる人柄などあくまで「仕事上で発信している面」を好きになって、その仕事に対価を払ってCDを買ったりコンサートに行ったりして応援…人によっては恋に似た感情を抱いたりしているわけですから、一個人としての交際や交友関係などプライベートなんて良くも悪くも関係ないんです。そこは商品として提供されている部分ではないし対価も払っていないのだから。

(そういう意味では結婚発表自体が不要だと私は思っています。「私事ですが」って私事なら発表しなくていいぞ!と。それを機に引退や産休育休とか夫婦セット売りしていくとか仕事に影響が出てくるなら別だけど、普段は「プライベートは見せたくない」「プライベートはそっとしておいて」みたいな空気のくせに突然「私事」を発表してきて何なら肯定・祝福・あたたかい見守りができないファンが居心地悪くなるような空気を作るなよと思ってしまいます。商品として提供されているその人の事が好きだからと言ってその家族や恋人にまで好意的な感情を抱くとは限りませんからね。まあ、付き合ったり別れたりみたいな口約束とは別で、婚姻関係に関しては家族として生活していく以上は何処からかバレますから、意図せず変にバレるよりもタイミングを見て自ら発表するのが無難なのでしょうけど、それならできるだけサラッと”祝福も要らんし自分も仕事でそれに触れることはしないので今後も変わらず頑張ります”みたいなスタンスでやって欲しいな、個人的には。それと余談ですが結婚を機に「◯年交際」とか交際期間の長さを強調して純愛アピールするみたいなのも好きじゃないです。なんで過去を遡って「あの頃もすでに付き合ってました!」と明言されなければならんのか意味不明です。要らんだろ。)

 

勿論「自分が知らないプライベートも含めてありのままの彼自身を応援するんだ!一人の人間として好き!」というスタンスも立派だと思いますが、それだけが「本当のファン」ではないと思います。交友関係、恋愛、結婚などというプライベートの出来事に対して肯定的な気持ちを抱いていなくても、彼が芸能活動をしている姿が好きで応援してきた・しているのであればそれは立派な「ファン」だと思うんです。正式に発表されたからには、ファンを続けていく上であの人と結婚という事実を受け入れていかなければならないけれど、それは肯定できなくても祝えなくてもいいんです。今回の結婚に対して、あらゆる想いから嫌な気持ちや寂しく感じる気持ちを露わにしてしまって、ファンでも何でもない外野の人や祝えない人を認めない排他的なファンに心ない言葉を投げられてしまった人、どうか自信を持って「自分は彼のファンだ!」と言ってほしいです。

 

…しかしプライベートは自由であるとはいえ、「一般人と同様に自由」ってわけにはいかないですよね。提供する商品が「自分自身(の一部)」である以上、自身の商品価値を落としたり、あるいは提供しているコンテンツの受け取られ方が変わってしまうようなプライベートはなるべく見せないようにしてほしいものです。交際を知るにもあらゆる形があるけれど、「本人たちはファンに配慮して隠す努力をしてくれていた」という状況と「本人たち(もしくはどちらか)が交際を匂わせる内容を自らファンに向けて発信し続け、いたずらにファンを不快にさせていた」とでは受け取り方が違って当然だもの。プライベートは仕事と切り分けてそっとしておいてほしいなら、商品として提供すべきでない部分をファンに向けたコンテンツで発信しないでよね。ファンの応援を恋愛のスパイス()扱いされるなんてたまったんじゃないっての。

 

あらためて、お祝い出来ずやり場のない想いを抱えたファンの皆様、お気持ちお察しいたします。ひとまず活動休止期間までたくさん活動するようですから、これからまた充実したオタク生活ができますように。

そして逆にこれを読んで気を悪くした方がいたらごめんなさいね。。

3秒で人を幸せにする力。

  少し前の話になるが、元48グループの方と握手をする機会があった。「握手会」という名目のものではなく、参加していたイベントの最後に彼女がお見送りの握手をしてくれるというものだった。それを初めて体験して「ああ、これは握手券1枚分のほんの数秒でも素敵な体験なのだろうな」と、ほんの数秒の握手のためにAKB48CDを何枚も買って行列に並ぶファンの気持ちが少しだけわかってしまった。

 

 握手するコーナーはパーテーションで軽く仕切られていて、まあまあ速いテンポで人が入っては出てきていた。そこから出てくる人達はみんなすごく幸せそうな顔でニコニコしていたのが印象的だった。他人の置かれている状況に対して「幸せそう」と思うことはあるけれど、表情に対してここまでハッキリと「幸せそう」だと思うのは初めてかもしれない。「嬉しそう」や「楽しそう」ではなくて「幸せそう」という言葉がすごくしっくりくる表情だった。

 私は彼女に何と話しかけるかを脳内で何度もシュミレーションしながらパーテーションの中に入った。前の人が後ろ歩きをしながら名残惜しそうに出ていくところだった。私は握手をしてすぐに決めていた言葉を言うと、彼女はこちらの目をじっと見てそれを聞いてくれて、瞬時にその言葉に対するとても嬉しい返答をしてくれた。歩きながら握手して通りすぎるような感じできっとその会話も2~3秒なのだけど、パーテーションから出てきた私の顔も幸せそうな表情だったに違いない。

 

 私が彼女に言った言葉はおそらく他にも同じことを言った人がいると思われるもので、それらには同じ言葉を返していると思う。それでもやはり私の目をしっかり見て返してくれるその言葉はとても嬉しかった。「突然話しかけてくる知らない人に対して、相手が嬉しくなるような返答を瞬時にできる」というのは本当にすごいスキルだ。握手会では、瞬時に答えなければ相手はすぐに去ってしまう。与えられたほんの数秒で相手を楽しませるってすごく大変なこと。たとえ「こんな言葉に対してはこう言う」とある程度のパターンを考えていたとしても、普通の人なら一瞬つまると思う。次にどんな人のどんな言葉がくるかわからない状況で、瞬時に的確な対応をするスキル、本当に素晴らしかった。「握手会が上手くなっても別に」と思うかもしれないけれど、発言に対するレスポンスが早くて的確なのって芸能関係に限らず日常的な人間関係でも生かせるものだと思うし、タレントさんだとバラエティでのコメントの瞬発力も鍛えられるんじゃないかと思う。きっとアイドル側でも握手会に対する姿勢って様々だと思うけれど、こうして力にしていける人はきっと他の場所でも上手くいくだろう。

 

 たかが3秒、されど3秒。交わした言葉は少なくても「相手が自分とコミュニケーションをとろうと努力してくれる姿勢」というのは嬉しいものだ。その言葉自体が特別なものじゃなくても、その心遣いが嬉しい。彼女には3秒で人を幸せにする力が確かにあった。

 

芸能人との接触イベントについては色々と思う事があるので、次の記事も関連したことを書こうと思います。

 

ダスキンの食器用スポンジが素晴らしい

タイトルの通りなのですが、ダスキンの食器用スポンジがとにかく素晴らしくてびっくりした話なので、「ダスキンって良さそうだけど、高くね…?」と思って買うのを躊躇っている人にぜひ読んでほしい(笑)ステマじゃなくて本当に個人的なおすすめです。

 

職場の職域販売で定価より少し安く売っていたのがダスキンのスポンジとの出会いでした。スポンジ10個で1800円相当のところが1500円くらいになっていたのですが、周りのお姉さんたちと「1個あたり150円って…安いんですか…?」「私3個で100円のスポンジ使ってる」「私もIKEAの安いやつ使ってるからお得感がわからない…」と、「「「セールになっても全然高いやんけ…ダスキンさん…」」」という空気になっていました。庶民的な感覚の人ならそう思う人が多いですよね。スポンジって消耗品だしすぐ汚くなったり臭いが気になったりボロボロになったりするから、選ぶポイントと言えば価格と好みのサイズ感くらいなもので。1個180円が150円になろうが普通の感覚でいえば全然高いんですよね。ところが社内で既に使用してる人たちが「本当に良い!」と言って結構な量をまとめ買いしているのを見て、「みんながそういうなら試しに買ってみようか…」とだまされたつもりで買ってみたのでした。

 

触ってみた感じはよくあるスポンジより結構かためだな~っていうくらいで特別な感じはしなかったのですが、これが本当にすごい!グラタン皿やお鍋の焦げ付いてしまった部分も力を入れずにするっとなでればスポンジがからめとってくれるし、今までならカレーを調理したあとのお鍋を洗ったらそのスポンジとはサヨナラしていたのですが(笑)これはお鍋やお皿にこびりついたカレーやトマトソースを洗ったあとでも揉みながら水で軽く流せばスポンジに全然残らないのです。使っていると買った当初より少し柔らかくなってきますが、それはそれで「へたれてくる」というよりは「なじんでくる」という感じで、換え時がわからないくらい全然へこたれない。食器を洗うものなので衛生面を考えて私は2か月くらいを目安に変えていますが、感覚的には正直もっと使える…!

ちなみにこれはダスキンのスポンジ以外でもそうなのですが、使った後は泡がついたまま放置したりせず、流水で洗ってしっかり水気を切って置くと清潔に保てるし臭くなりにくいです。除菌する感覚で泡がついたまま放置するのはNGみたい。

 


 

 

そんなわけで2か月目安に食器洗いというお仕事からは引退させるもののまだまだ使えそうなので、ダスキンの店員さんのすすめで、台所を引退したスポンジはお風呂掃除やシンク・ガスコンロの掃除用などにジョブチェンジして使い続けています。最初はセールですら「高いな…」と思いつつ買ったけれど、今は定価でも買っているし、実家の母にプレゼントしたり家事を担っている友人にもプレゼントしたりしています。ダスキンのギフトセット(←一番見やすい、公式サイト。キッチンに特化したセットやお風呂セットなど、用途や価格帯別で色々あります♪)もあるので、近所の人に何かいただいた時のちょっとしたお礼とかにも使っています。喜ばれるプレゼントのコツって「欲しいけど、自分で買うには少し高く感じるもの」っていうのがあるじゃないですか。金額的に高価なわけじゃなくても、”その品物の単価としては高い”みたいな。そういう意味でもプレゼントにちょうどいいんですよね。喜んでくれる対象が”家事を担ってる人”に限られるかもしれないけど…。スポンジとか洗剤ってドラッグストアとかで売ってる安いの選んじゃう場合が多いから、ちょっと高くて良いやつもらうと使うの楽しいし、しかもそれがただブランド的な意味で高いだけじゃなくて優秀な品だったら本当にうれしいですよね。まあ私はその「自分で買うには少し高い」ダスキンのスポンジを自宅用に買ってしまっているわけなんですけど、結局もちが良いことと機能性を考えたら全然割高な感じしないんです。食器洗いを少しでも楽にしたい人におすすめ…!

 

公式での出店は公式サイトのほかに楽天市場amazonにもありますが、品揃えがそれぞれ結構違って、ダスキン公式サイトダスキン楽天市場ダスキンamazonの順番かな。

ギフトセットは楽天やアマゾンの公式店舗では取り扱っておらず、ギフトセットを購入する場合は公式サイトの通販を利用する場合と楽天私のライフスタイル カジタノで購入する時があります。販売価格は同じですが送料やポイント還元・クーポンの配布状況などにより、どちらで買うのがお得か決めています♪

「既読」と「未読」に囚われる人間関係

最近、友人関係においてLINEの「既読」という機能に囚われすぎてもはや意味不明…と思うことが多い。

 

20代前半の若い友人の口からよく聞く「既読無視」という言葉。

既読になっているのにすぐに返信をしないことをそう呼ぶらしく、これは友人関係においてはタブーでもあるらしい。彼女曰く「既読無視はよくないから、すぐに返信できない時には返信できるタイミングまで既読をつけずに未読のままにしておく」という気遣いをして既読無視を防ぐそうだ。私が中高生の頃はLINEではなくメールだったけれど、やはり一部では「チャット状態で早く返信しないとだめ」みたいな風潮はあったし、「既読無視」も多分そういう中で生まれた言葉なんだと思う。何かしら用件があって連絡をとることが多い大人に比べて、若い子たちのやりとりは雑談を主としているからこその文化なのだろう。

「既読無視は良くないから〜」というその言葉の通り、彼女に連絡をしても長時間(丸1日以上のことも)メッセージが既読にならない時がたまにある。数時間であれば「忙しいのかな」と思うけれど、あまりにも長いこと既読にならないと「敢えて開かずにいる」ということがこちらにもわかる。しかし私は雑談したくてLINEを送っているのではなく、伝えなければならない用件があって連絡しているわけで。とりあえず目を通してくれないかな?と未読のままのトーク画面を見て困惑する。特にそれが期日のある内容である際には「既読無視」より未読無視のほうが困ってしまう。ちゃんと期日までに用件を把握してくれるだろうか…と不安になる。ずいぶん時間が経ってから丁寧な返信がくると、既読スルーを避ける気遣いをドウモアリガトネ…と思いつつも、なんとなくもやもやする。

 

また別の友人は、LINEの通知画面を私に見せながら「こいつ面倒だから既読をつけてないんだ~(笑)」と何故かちょっと上から目線で誇らしげに言った。先に挙げた友人のように「既読無視はよくないから未読スルーをする」とは意味合いが違い、この友人は悪意をもって「未読スルー」をしている。しかし、結局やっていることは同じだ。本当に読まずに無視をする気があるならそもそもブロックをすれば良いし、メッセージを読んだ上で無視をしたいなら既読無視をすればいい。しかし彼女はそれをせず、未読のまま放置するその少しの間に「敢えて既読を”つけない”」という時間を過ごすことで「無視してやってる」と自分が優位にたって関係をコントロールしているような気分に浸る。それに満足したら「ごめんLINE気づかなかった!」だとか平然と返信したり、当たり障りないスタンプを返したりしている。つまり行動としては「気遣いとして」の未読スルーと同じこと。ちょっと優位な気分に浸りつつも結局は「既読無視」という行為を避けることによって関係の悪化を避けようとしているのだ。

 

そもそもLINEなどのメッセージアプリで「既読」という表示がなぜされているのかというと、これは文字の通り受信側からすれば「読みました」ということが返信をせずとも相手に伝えられ、送信側からすれば「読まれた」ということが認識できるため。例えるならば、回覧板のチェック表に自動でチェックをしてくれるような機能。すなわち「既読」になっている時点で「読みました」という取り急ぎの返事をしているのと同じことであり、その時点で実質「無視」はしていないことになる。つまりこれは「すぐに返信しなくても良いように」搭載されている機能であり、この「既読無視」という考え方はその機能を無視したなんとも本末転倒な発想だ。

勿論「既読」の表示だけでやりとりを済ませるのは基本的に不十分で、「承知した」という旨だけでも返信するほうがベターだし、質問に対する回答や意思表示をしなければならない場合など返信を要するメッセージは多くある。しかし、メッセージを読む時間があったからと言ってそのタイミングで返す余裕まであるとは限らない。内容だけでも先に把握しておくことは、余裕ができたときに返答するためにも効率がいい。だから返信できないタイミングだったとしても読めるときに読むべきだし、送信者もすぐに返信がなくとも既読表示があるならば「ひとまず読まれたようだ」とだけ認識すればいい。「既読」には「メッセージを開きました」以上の意味も以下の意味もない。返信を急ぐ場合はその旨を伝えればいいし、そうでないなら相手が返信できるタイミングを待てばいい。「明日あいてる?」の返答が何日経っても来ないなど、明らかに「もう今更返信が来ても意味ない」という時にはじめて、本当の意味で「無視」という状態になるのだと思う。

 

「既読」という表示は「読んだら自動的につく」「読まなければつかない」ただそれだけで、メッセージを「読んだか否か」というだけのこと。だから既読を「つける」「つけない」なんていう「既読」主体の物言い自体に違和感があるし、彼女らがどれだけ「既読」という表示に囚われているかが伺いしれる。この二文字の表示で人間関係をコントロールしようとしているし、されている。だけどそんな二文字にそこまで人間関係を左右されるの、怖くないですか?「読んだら即返信をしなければならない」って、あらゆる場合を想像する力が乏しすぎません?「既読になってるからそのうち返答をくれる」「返信こないけど既読になったから把握してくれる」「この子は返信遅めだけど絶対に返信はしてくれる」と思い合えるような信頼関係を築いた方がスムーズじゃないですか?

 

年齢を重ねるにつれて、連絡は「おしゃべりをするためのもの」から「必要なことを伝えるためのもの」という風に変化していくと思う。そう言った中で「未読スルー」というのは大変迷惑なこと。連絡事項を文面で伝える時点で「即反応」は求めていない(というか求めてはいけない)けれど、そこまで長時間読まれないことも想定されていない。返信のタイミングは期日などない限り自由にすればいいけれど、ひとまず読めるときに読む癖をつけた方がいいと思う。「既読スルーを避けるための未読スルー」、反対。