東野圭吾『幻夜』を読んだ

今更ながら東野圭吾の『幻夜』を読了。『白夜行』の姉妹作であることから、2つを絡めて色々と感想を。ちなみにオススメというわけではないので商品へのリンクは貼っておりません…。

(以下、両作品のネタバレあり)

 

白夜行と絡めて考えず、『幻夜』という独立した作品としては面白かったと思う。ただ、白夜行の続編として…美冬を雪穂として読むのならば、この作品は蛇足だったように思う。

白夜行』は、根底に初恋・お互いへの愛情があるからこそ悲しくて綺麗な話だったと思う。どんなに手を汚しても、お互いに他の人と暮らしていても、そこには小学生の頃の彼らがいて身を寄せ合いながら歩いている…そんな物語だった。笹垣が2人をエビとハゼの共生に例えたように"共生"だった。(白夜行のラストシーンの解釈で2人の関係への解釈もわかれるようですが、私は2人が互いに"最愛の人"だったと解釈しています。)彼らの関係性があったからこそ、罪を重ねていくことが物語として深みになっていったと思う。

けれど『幻夜』は、"共生"している2人ではなく"悪女とその駒のうちの1"を描いた悪女物語。『白夜行』とリンクさせることによって考察の幅は広がるけれど、リンクさせずに単品で良かった気がする。私のような視点で『白夜行』を好んでいた人にとっては"白夜行の第二部"としては期待外れだったんじゃないかなと思う。

 

私は雪穂が好きだったけれど美冬は好きになれず、美冬の正体は雪穂なのであろうと思わせるような書き方をされているけれど、雪穂であってほしくない…というのが素直な気持ち。

美冬はあまりにも露骨に悪女くさくて、雪穂のようなスマートさがない。セックス論を語るところや生肉を食べさせるくだりなんて特に知性に欠いており、まるで胡散臭くて気合い任せな自己啓発セミナーのようなノリに思えてしまって…。水原といる時の関西弁や、水原以外にも時々見せる気の強そうな態度を含め、著者が意図的に雪穂のイメージに反するような人物像を描いたのだと思うけれど、色々と必要以上に過激なやり方をとりすぎていて、もはや表に向きの顔ですら、雪穂のように育ちの良さそうな優雅さよりも、"水商売から金持ち旦那をゲットした成金奥様"みたいな感じに思えてしまう。水原への「相談(と言う名の決定事項)」だの「二人の幸せのため」だのと言う口説き文句も、歌舞伎町のホストばりに安っぽくて胡散臭い。巧みな人心掌握というより、脅しに近いようなやり方とハニトラみたいな短絡的なやり方ばかりなんですよね。

 

単なる悪女物語としてはお見事で気持ちいい結末なんだけど、彼女が雪穂なのだとしたら残念でしかない…。

私が手にとった文庫本の『幻夜』の帯には「110万人が慄えた悪女の素顔」と書いてあったけど、美冬が雪穂であるにせよそうでないにせよ、ここには彼女の素顔なんてなかったように思う。気が強い態度も、きつめな関西弁も、あの胡散臭い甘い言葉たちも、すべてはコマを動かすための演技であり、彼女の素顔なんてどこにも明かされていない。

そしてもし美冬が雪穂なのだとしたら…彼女の素顔が見られたのはきっと亮司だけでしょう。そうであって欲しい。

 

そんなこんなで、白夜行"雪穂と亮司の関係ありき"なあの空気がすきだったので、続編・姉妹作としての幻夜は蛇足であったというのが私の印象ですが、白夜行のイメージを壊さないまま幻夜を都合よく解釈するとすれば「夜を照らしてくれていた亮司が居なくなった世界で、1人で暗い夜を生きるための覚悟が雪穂をモンスターに変えた」というところに落ち着くかな…。亮司が命をかけて切り開いてくれた未来を無駄にしない、その未来の続きを自分で切り開いていくためなら手段は選ばない、と。

 

しかし"続編"というにはなかなか上手く繋がらない箇所が多いよね。例えば白夜行のラストシーンから幻夜の最初のシーンに行くまでの期間もすごく短いので、そこまで迅速に雪穂の頃のあらゆることを清算できないよね?という点だったり、新海美冬(本物)のような存在も白夜行には登場しておらず、おそらく浜本夏美がそれにあたるであろうが名前が違うということだったり。そういう点を考えると、幻夜白夜行パラレルワールドのお話として捉えるのが妥当なのかな思う。始まりは白夜行だけど、どこかの分岐点で違う選択をした世界線の雪穂のお話。

3作目もあるか??みたいな空気もあったけれど、もし3作目があるなら今度こそ雪穂や亮司の素顔を見てみたいな。

 

東野圭吾の著書は「これは伏線!」「さっきの伏線、ここで回収!」という調子で回収しやすい伏線が散りばめられているので、普段本を読まない人にもわかりやすい。ミステリー小説の入口として適切だと思うし、あまり本を読まない部類の人が「東野圭吾は読む」「唯一好きな作家は東野圭吾」というのもなんとなくわかる気がした。わかりやすいだけでなく、それでいてどうともとれるような表現も多いから色々考察できる余地があって、読書が好きな人にもファンは多いのでしょうね。