「周りの人の目を気にすることはない。しかし空から神様が見ている。その神様の目を意識して行動しなさい。」
これは大学の教育学の授業で先生が言っていた言葉であり、私の大学生活の中で強く印象に残っている言葉のうちの一つです。私は信仰している宗教が特にないため"神様が見ている"という表現は正直なところピンと来ませんが、私にとってその”神様の目”にあたるものは何かというと「自分はこうありたい」という信念だと思います。そしてその信念を保つためのモチベーションは、妙なことに思われるかもしれませんが「過去に私を好きになってくれた人の存在」なのです。
過去に自分を好きになってくれた人の存在。それは過去にお付き合いした人だったり、気持ちに応えることは出来なかったけど勇気を出して告白してくれた人だったり、あるいは「あの頃、実は好きだった」とあとになってから伝えてくれた人だったりと色んな場合を含めてです。勿論、そういった人達と実際に再会する機会を望むわけではありませんし、時を経てまた私を好きになって欲しいだなんて思っているわけでもありません。実際の彼らの目を意識しているわけではないんです。ただ、「もし現在の自分を彼らに知られることがあっても、その人達の思い出を汚さない自分でありたい」「もし街ですれ違ったりバッタリ会うことがあっても”やっぱり良いな””好きになって良かったな”と思ってもらえる自分でありたい」というある種の指標というか、そういう基準を以って自分を律するというだけのことです。もし本当にそういうシチュエーションになった時に彼らが実際どう思うかは関係なくて、あくまで「自分はこうありたい」という信念をそこに当てはめてモチベーションにしているというだけのこと。これが私の信念をもとにした仮想の"神の目"なのです。
「”これから出会う好きな人"に恥じることない自分で居たい」という気持ちが”神の目”だったこともあります。「好きになった人に対して隠したくなるような過去は作らない」と。そして今も、現在の”好きな人”である恋人に言えないようなことはしないというのは、あらゆる選択をする上で大切にしていることですし大前提です。しかし今の自分を愛してくれている人というのは(恋愛関係に限らずですが)「ありのままの自分」を受けれてくれている存在であるが故、良くも悪くも甘えが生じる部分もあるんですよね。「理想の自分」を目指して自分を律するというには適さない部分があるんです。それに対して「過去の恋」というのは記憶の中で美化されがちですよね。その「美化された自分」を想像してそれを基準にすることで、より高い基準で自分を律することが出来ていると思うのです。
そういう訳で、決して現在の恋人の存在や側にいてくれる大切な人達を差し置いて過去に寄せられた好意を想っているということではないのですよ。
あらためて「周りの人の目を気にすることはない。しかし空から神様が見ている。その神様の目を意識して行動しなさい。」と言う言葉、私にとって宝物のうちの一つだなと思います。熱心なキリスト教信者である先生ならではの言葉ですが、これに限らず大学で学んだそういった宗教的な要素を含む考え(キリスト教以外でも)は、自分なりに噛み砕いてみると共感することや学ぶこと、そして救われることも多くありました。
周りの目を気にして怯えたり落ち込んだり諦めたりすることなく、心から自分を肯定出来るような生き方をしたいですよね。