3秒で人を幸せにする力。

  少し前の話になるが、元48グループの方と握手をする機会があった。「握手会」という名目のものではなく、参加していたイベントの最後に彼女がお見送りの握手をしてくれるというものだった。それを初めて体験して「ああ、これは握手券1枚分のほんの数秒でも素敵な体験なのだろうな」と、ほんの数秒の握手のためにAKB48CDを何枚も買って行列に並ぶファンの気持ちが少しだけわかってしまった。

 

 握手するコーナーはパーテーションで軽く仕切られていて、まあまあ速いテンポで人が入っては出てきていた。そこから出てくる人達はみんなすごく幸せそうな顔でニコニコしていたのが印象的だった。他人の置かれている状況に対して「幸せそう」と思うことはあるけれど、表情に対してここまでハッキリと「幸せそう」だと思うのは初めてかもしれない。「嬉しそう」や「楽しそう」ではなくて「幸せそう」という言葉がすごくしっくりくる表情だった。

 私は彼女に何と話しかけるかを脳内で何度もシュミレーションしながらパーテーションの中に入った。前の人が後ろ歩きをしながら名残惜しそうに出ていくところだった。私は握手をしてすぐに決めていた言葉を言うと、彼女はこちらの目をじっと見てそれを聞いてくれて、瞬時にその言葉に対するとても嬉しい返答をしてくれた。歩きながら握手して通りすぎるような感じできっとその会話も2~3秒なのだけど、パーテーションから出てきた私の顔も幸せそうな表情だったに違いない。

 

 私が彼女に言った言葉はおそらく他にも同じことを言った人がいると思われるもので、それらには同じ言葉を返していると思う。それでもやはり私の目をしっかり見て返してくれるその言葉はとても嬉しかった。「突然話しかけてくる知らない人に対して、相手が嬉しくなるような返答を瞬時にできる」というのは本当にすごいスキルだ。握手会では、瞬時に答えなければ相手はすぐに去ってしまう。与えられたほんの数秒で相手を楽しませるってすごく大変なこと。たとえ「こんな言葉に対してはこう言う」とある程度のパターンを考えていたとしても、普通の人なら一瞬つまると思う。次にどんな人のどんな言葉がくるかわからない状況で、瞬時に的確な対応をするスキル、本当に素晴らしかった。「握手会が上手くなっても別に」と思うかもしれないけれど、発言に対するレスポンスが早くて的確なのって芸能関係に限らず日常的な人間関係でも生かせるものだと思うし、タレントさんだとバラエティでのコメントの瞬発力も鍛えられるんじゃないかと思う。きっとアイドル側でも握手会に対する姿勢って様々だと思うけれど、こうして力にしていける人はきっと他の場所でも上手くいくだろう。

 

 たかが3秒、されど3秒。交わした言葉は少なくても「相手が自分とコミュニケーションをとろうと努力してくれる姿勢」というのは嬉しいものだ。その言葉自体が特別なものじゃなくても、その心遣いが嬉しい。彼女には3秒で人を幸せにする力が確かにあった。

 

芸能人との接触イベントについては色々と思う事があるので、次の記事も関連したことを書こうと思います。

 

ダスキンの食器用スポンジが素晴らしい

タイトルの通りなのですが、ダスキンの食器用スポンジがとにかく素晴らしくてびっくりした話なので、「ダスキンって良さそうだけど、高くね…?」と思って買うのを躊躇っている人にぜひ読んでほしい(笑)ステマじゃなくて本当に個人的なおすすめです。

 

職場の職域販売で定価より少し安く売っていたのがダスキンのスポンジとの出会いでした。スポンジ10個で1800円相当のところが1500円くらいになっていたのですが、周りのお姉さんたちと「1個あたり150円って…安いんですか…?」「私3個で100円のスポンジ使ってる」「私もIKEAの安いやつ使ってるからお得感がわからない…」と、「「「セールになっても全然高いやんけ…ダスキンさん…」」」という空気になっていました。庶民的な感覚の人ならそう思う人が多いですよね。スポンジって消耗品だしすぐ汚くなったり臭いが気になったりボロボロになったりするから、選ぶポイントと言えば価格と好みのサイズ感くらいなもので。1個180円が150円になろうが普通の感覚でいえば全然高いんですよね。ところが社内で既に使用してる人たちが「本当に良い!」と言って結構な量をまとめ買いしているのを見て、「みんながそういうなら試しに買ってみようか…」とだまされたつもりで買ってみたのでした。

 

触ってみた感じはよくあるスポンジより結構かためだな~っていうくらいで特別な感じはしなかったのですが、これが本当にすごい!グラタン皿やお鍋の焦げ付いてしまった部分も力を入れずにするっとなでればスポンジがからめとってくれるし、今までならカレーを調理したあとのお鍋を洗ったらそのスポンジとはサヨナラしていたのですが(笑)これはお鍋やお皿にこびりついたカレーやトマトソースを洗ったあとでも揉みながら水で軽く流せばスポンジに全然残らないのです。使っていると買った当初より少し柔らかくなってきますが、それはそれで「へたれてくる」というよりは「なじんでくる」という感じで、換え時がわからないくらい全然へこたれない。食器を洗うものなので衛生面を考えて私は2か月くらいを目安に変えていますが、感覚的には正直もっと使える…!

ちなみにこれはダスキンのスポンジ以外でもそうなのですが、使った後は泡がついたまま放置したりせず、流水で洗ってしっかり水気を切って置くと清潔に保てるし臭くなりにくいです。除菌する感覚で泡がついたまま放置するのはNGみたい。

 


 

 

そんなわけで2か月目安に食器洗いというお仕事からは引退させるもののまだまだ使えそうなので、ダスキンの店員さんのすすめで、台所を引退したスポンジはお風呂掃除やシンク・ガスコンロの掃除用などにジョブチェンジして使い続けています。最初はセールですら「高いな…」と思いつつ買ったけれど、今は定価でも買っているし、実家の母にプレゼントしたり家事を担っている友人にもプレゼントしたりしています。ダスキンのギフトセット(←一番見やすい、公式サイト。キッチンに特化したセットやお風呂セットなど、用途や価格帯別で色々あります♪)もあるので、近所の人に何かいただいた時のちょっとしたお礼とかにも使っています。喜ばれるプレゼントのコツって「欲しいけど、自分で買うには少し高く感じるもの」っていうのがあるじゃないですか。金額的に高価なわけじゃなくても、”その品物の単価としては高い”みたいな。そういう意味でもプレゼントにちょうどいいんですよね。喜んでくれる対象が”家事を担ってる人”に限られるかもしれないけど…。スポンジとか洗剤ってドラッグストアとかで売ってる安いの選んじゃう場合が多いから、ちょっと高くて良いやつもらうと使うの楽しいし、しかもそれがただブランド的な意味で高いだけじゃなくて優秀な品だったら本当にうれしいですよね。まあ私はその「自分で買うには少し高い」ダスキンのスポンジを自宅用に買ってしまっているわけなんですけど、結局もちが良いことと機能性を考えたら全然割高な感じしないんです。食器洗いを少しでも楽にしたい人におすすめ…!

 

公式での出店は公式サイトのほかに楽天市場amazonにもありますが、品揃えがそれぞれ結構違って、ダスキン公式サイトダスキン楽天市場ダスキンamazonの順番かな。

ギフトセットは楽天やアマゾンの公式店舗では取り扱っておらず、ギフトセットを購入する場合は公式サイトの通販を利用する場合と楽天私のライフスタイル カジタノで購入する時があります。販売価格は同じですが送料やポイント還元・クーポンの配布状況などにより、どちらで買うのがお得か決めています♪

「既読」と「未読」に囚われる人間関係

最近、友人関係においてLINEの「既読」という機能に囚われすぎてもはや意味不明…と思うことが多い。

 

20代前半の若い友人の口からよく聞く「既読無視」という言葉。

既読になっているのにすぐに返信をしないことをそう呼ぶらしく、これは友人関係においてはタブーでもあるらしい。彼女曰く「既読無視はよくないから、すぐに返信できない時には返信できるタイミングまで既読をつけずに未読のままにしておく」という気遣いをして既読無視を防ぐそうだ。私が中高生の頃はLINEではなくメールだったけれど、やはり一部では「チャット状態で早く返信しないとだめ」みたいな風潮はあったし、「既読無視」も多分そういう中で生まれた言葉なんだと思う。何かしら用件があって連絡をとることが多い大人に比べて、若い子たちのやりとりは雑談を主としているからこその文化なのだろう。

「既読無視は良くないから〜」というその言葉の通り、彼女に連絡をしても長時間(丸1日以上のことも)メッセージが既読にならない時がたまにある。数時間であれば「忙しいのかな」と思うけれど、あまりにも長いこと既読にならないと「敢えて開かずにいる」ということがこちらにもわかる。しかし私は雑談したくてLINEを送っているのではなく、伝えなければならない用件があって連絡しているわけで。とりあえず目を通してくれないかな?と未読のままのトーク画面を見て困惑する。特にそれが期日のある内容である際には「既読無視」より未読無視のほうが困ってしまう。ちゃんと期日までに用件を把握してくれるだろうか…と不安になる。ずいぶん時間が経ってから丁寧な返信がくると、既読スルーを避ける気遣いをドウモアリガトネ…と思いつつも、なんとなくもやもやする。

 

また別の友人は、LINEの通知画面を私に見せながら「こいつ面倒だから既読をつけてないんだ~(笑)」と何故かちょっと上から目線で誇らしげに言った。先に挙げた友人のように「既読無視はよくないから未読スルーをする」とは意味合いが違い、この友人は悪意をもって「未読スルー」をしている。しかし、結局やっていることは同じだ。本当に読まずに無視をする気があるならそもそもブロックをすれば良いし、メッセージを読んだ上で無視をしたいなら既読無視をすればいい。しかし彼女はそれをせず、未読のまま放置するその少しの間に「敢えて既読を”つけない”」という時間を過ごすことで「無視してやってる」と自分が優位にたって関係をコントロールしているような気分に浸る。それに満足したら「ごめんLINE気づかなかった!」だとか平然と返信したり、当たり障りないスタンプを返したりしている。つまり行動としては「気遣いとして」の未読スルーと同じこと。ちょっと優位な気分に浸りつつも結局は「既読無視」という行為を避けることによって関係の悪化を避けようとしているのだ。

 

そもそもLINEなどのメッセージアプリで「既読」という表示がなぜされているのかというと、これは文字の通り受信側からすれば「読みました」ということが返信をせずとも相手に伝えられ、送信側からすれば「読まれた」ということが認識できるため。例えるならば、回覧板のチェック表に自動でチェックをしてくれるような機能。すなわち「既読」になっている時点で「読みました」という取り急ぎの返事をしているのと同じことであり、その時点で実質「無視」はしていないことになる。つまりこれは「すぐに返信しなくても良いように」搭載されている機能であり、この「既読無視」という考え方はその機能を無視したなんとも本末転倒な発想だ。

勿論「既読」の表示だけでやりとりを済ませるのは基本的に不十分で、「承知した」という旨だけでも返信するほうがベターだし、質問に対する回答や意思表示をしなければならない場合など返信を要するメッセージは多くある。しかし、メッセージを読む時間があったからと言ってそのタイミングで返す余裕まであるとは限らない。内容だけでも先に把握しておくことは、余裕ができたときに返答するためにも効率がいい。だから返信できないタイミングだったとしても読めるときに読むべきだし、送信者もすぐに返信がなくとも既読表示があるならば「ひとまず読まれたようだ」とだけ認識すればいい。「既読」には「メッセージを開きました」以上の意味も以下の意味もない。返信を急ぐ場合はその旨を伝えればいいし、そうでないなら相手が返信できるタイミングを待てばいい。「明日あいてる?」の返答が何日経っても来ないなど、明らかに「もう今更返信が来ても意味ない」という時にはじめて、本当の意味で「無視」という状態になるのだと思う。

 

「既読」という表示は「読んだら自動的につく」「読まなければつかない」ただそれだけで、メッセージを「読んだか否か」というだけのこと。だから既読を「つける」「つけない」なんていう「既読」主体の物言い自体に違和感があるし、彼女らがどれだけ「既読」という表示に囚われているかが伺いしれる。この二文字の表示で人間関係をコントロールしようとしているし、されている。だけどそんな二文字にそこまで人間関係を左右されるの、怖くないですか?「読んだら即返信をしなければならない」って、あらゆる場合を想像する力が乏しすぎません?「既読になってるからそのうち返答をくれる」「返信こないけど既読になったから把握してくれる」「この子は返信遅めだけど絶対に返信はしてくれる」と思い合えるような信頼関係を築いた方がスムーズじゃないですか?

 

年齢を重ねるにつれて、連絡は「おしゃべりをするためのもの」から「必要なことを伝えるためのもの」という風に変化していくと思う。そう言った中で「未読スルー」というのは大変迷惑なこと。連絡事項を文面で伝える時点で「即反応」は求めていない(というか求めてはいけない)けれど、そこまで長時間読まれないことも想定されていない。返信のタイミングは期日などない限り自由にすればいいけれど、ひとまず読めるときに読む癖をつけた方がいいと思う。「既読スルーを避けるための未読スルー」、反対。

お祝儀袋に書く自分の名前が下手すぎて頭を抱える大人たちへ捧ぐ。

私は字が下手である。

子ども頃は、大人の綺麗な字を見て「自分も大人になったらそういう字が書けるようになるものだ」と思っていたのだけれど実際は何の努力もせずに突然変異で字がきれいになるわけもなく、今もなんとも言えない不格好な字を書いている。ギャル文字みたいに崩れているわけでもなく、硬筆のお手本のように美しい字でもなく、なんというか「丸文字の人が頑張って綺麗に書こうとした不格好な字」という感じ。

 

中高時代はプリクラの落書きにあるような可愛い字体も憧れたけれどそうもなりきれず何となく定着した丸文字を書いていた。大学時代はほとんどPC入力のことが多く、テストなどは読めればいいやという感じであまり自分の字を意識していなかった。

最初に「自分の字が不格好で恥ずかしい!」という事実に直面したのは就職活動の履歴書を書いた時。上手く書けないのでもう途中から手書きはあきらめてPCで打った。(履歴書は手書きか打ち込みか論争あるけど個人的にはPCで打ったから不利になったと感じたことはないし、会社側の人間としても「読みやすければどちらでも」と思っている。)そしてせめて入社までには字を綺麗にしようと思いペン字の練習テキストを買って練習してみたものの、お手本があればきれいに書けるけれどお手本から離れるとたちまちバランスを崩してしまい、丁寧さとバランスの悪さが共存した「字の綺麗めの小学生男子」みたいな絶妙に不格好な字になってしまうのだった。それならもともとの丸文字のほうがまだバランスが保てていて断然読みやすく、結局字は改善されないまま今に至る。

会社に入ってからはまた手書きの文字とはほぼ無縁な生活を送っていたのでそれでも困ることはなかったけれど、アラサーになり度々自分の字の不格好さに悩まされるのがご祝儀袋に名前を書く時。子供みたいな字と綺麗なご祝儀袋や着飾った自分とがミスマッチで、自分の字の下手さがすごく恥ずかしくなる。新郎新婦や受付の人は忙しくてそんなにいちいち名前の綺麗さなんて見ないと思うけれど、やはりすごく恥ずかしいものだ。

 

 

そんな中、こんな商品を見つけました。慶弔用のおなまえスタンプ。

 

 


 

 

こんなのあるなら最初からこれ買ってればよかった…!これで少なくともご祝儀袋の文字で悲しい気持ちになることはなくなる。

 

とはいえ根本的な解決にはならないので、私はこれを機にまたたボールペン字の練習に再チャレンジしようと思う。いくら着飾って美容に気を使って綺麗な大人の女性になれても、何かの受付とか署名とかで書いた文字が子供みたいな字だと情けないものね。逆に多少バカっぽい印象を抱かれていても字が綺麗だと印象爆上がりじゃないですか。やはり字が上手くかけることって大きな魅力の一つよね。

埼玉県人が翔んで埼玉を観てきた。

私の実家は所沢。私は埼玉県人なのだ。

本来であれば新所沢の映画館(最近キレイになったと風の噂できいた)で観るべきだったのだけれど、残念ながら仕事の都合でなかなか県内の映画館に行けず、六本木などという都会指数の高い映画館で観てしまった。「ここで笑うの埼玉県人だけじゃん」と思うような小さいネタでつい笑ってしまっていたのは私だけではなく、六本木も埼玉化が進んでいる模様。

 

これまで「ダサイタマ」と言われることについて、率直な感想としては「ピンとこない点で馬鹿にされて反応しにくい」という感じだった。例えば田舎くさい様子を表すのに「埼玉のヤンキーに居そう」みたいな表現を聞いたことがあるけれど、私が住んでいる地区ではヤンキーなんて見たことがなかった。大学時代に都内で飲み会をすると「家、埼玉なの!?遠くない!?」と言われたりもしたけれど(その輪は神奈川県民が多かった)、実際の所要時間としてはみんなと殆ど変わらなかったし私自身遠いと感じたことはなかった。終電の時間も遅い方だったので終電を理由に輪から途中離脱しなければならないということもなかった。

都心が"近所"といえるほど近いわけではないがそこそこアクセスも良い、都会ではないがド田舎でもない普通の住宅街で育った私は、埼玉での暮らしに何も不満を感じたことはなくほかの土地に劣っていると思ったこともなく、「何もなくて田舎なダサイタマ」というイメージで埼玉を見下してくる人とは話がかみ合うはずがなかった。いちいち否定するのも面倒なので何となく「そうそう、ださいたまなの~」とか言ってヘラヘラしていたけれど、"埼玉県在住だというだけで覚えのないことで一旦見下される"というその流れは非常に面倒くさくて鬱陶しかった。そんなわけで大学時代は出身を言う流れにうんざりして「こりん星から来ました」と答えていた。

しかし、劇中で加藤諒演じるZ組の生徒が「悔しいよ!住みやすくていいところじゃん!」と言ったのはなんだか心にグッときた。完全コメディで「感動した」というのもおかしな話かもしれないけれど、感動した。そう、ものすごく印象的なものはないけどほどほどに何でもあって住みやすくていいところ。それなのに何故よく知りもしない人に「埼玉は何もない」「ダサイタマ」だとか馬鹿にされてヘラヘラしてなきゃならないのかと!埼玉県は見下していいみたいな風潮意味わからん!!バカにされるたびになんとなく抱えていたモヤモヤが加藤諒のセリフでしっかりと言葉にされて、なんだかとても気持ちが良かった。

 

兎にも角にも、この映画を観てからは埼玉県出身であることがとても誇らしくなった。「私は埼玉県人です」ってめっちゃ言いたい。今後は出身地をきかれたら相手の反応を面倒くさがらずに「埼玉県」と堂々と言いたい。埼玉ポーズしながら言いたい。なんなら翔んで埼玉的な位置づけでは「所沢」というのもちょっと誇らしいし()、今私が中高生だったらプリクラ撮るときに埼玉ポーズしまくりたい。

映画『翔んで埼玉』ありがとう…!

 

余談だけど、そもそも「関東は東京・神奈川に次ぐ3番手争いで埼玉VS千葉」みたいな構図って本当にあるの…?所沢は千葉と結構距離があるからなのか、全然そんな風に意識したことがなかった。テレビとかでもたびたびその構図を持ち出されているのを見るけれど「????」って感じ。張り合うほどお互いのこと知らないし意識もしてないよね。

 
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「死にたい」をどこかで吐き出してみること

今更ながら『12人の死にたい子どもたち』を観てきた。(※映画の内容のネタバレあるので嫌な方は読まないでくださいね。) 

予告やポスターなどをチラッと見て、てっきり「自殺願望のある未成年が集団自殺のために集まるも、集合した部屋では既に何者かに殺されたと思しき死体があり、"この中に殺人犯が混ざってる?"”自殺したいけど殺されるのは嫌!”と疑心暗鬼な探り合い潰し合いのバトロワ展開」みたいな物騒な展開を想像していたのですが。ていうかそういうのを想像させるような宣伝の仕方をしていたよね?ところが「どこで血みどろ展開に!?」「くるか?今か!?」「最後くるか!?」と構えているうちに普通に平和に終わってしまって、上映後のシアターの空気も「え…???」「イイハナシダッタネー(棒)」という空気が流れておりました。

鑑賞後にあらためてホームページをみてみたら「厚生労働省の自殺防止ポスターとタイアップ」とか書いてあるのよね。…なるほどね。

 

ちなみにタイトルで気付けば良かったのですが、こちらの作品のパロディです。

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そんな感じで、予告に釣られてバトロワ展開を想像していた人たちからすると「俺たちはこんなイイハナシを観に来たんじゃねえ…」という感じだし、逆に予告を見て「出演者は好きだけど怖そうだから観れない…」とか思ってた人は観ても平気だったんじゃない?みたいな、なんとも勿体ない予告編詐欺だと思う。インパクトがあればいいってもんじゃない。だけど、まあこういう映画だったんだなってことを受けてあらためてこれはこれで良い作品だったと思ったりもしたので、この作品を通じて考えた「未成年の自殺」についての考えを記そうと思う。

 

まさに今朝にも「小学生が2人で飛び降り自殺」というニュースを見たばかりなのだけれど。未成年の頃ってすごく不安定で、「死にたい」という答えが出てしまいやすいと思う。私も昔はつらいことがあると「自殺したら楽になれるかな?」「死にたいな」「はいはい、私が死ねばいいんでしょ?」だとか本気で思うことが何度もあった。今思えばその思考は軽率だけれど、その時は本当に苦悩を抱えていたし自分なりに本気だった。自らの「死」が何かを伝えるあるいは何かを変えてくれるようなすごく大きな意味を持つ方法のように思えていたのかもしれないし、単なるリセットボタンみたいな感覚だったかもしれない。悲劇的に散ることがドラマチックで美しい結末のように思っていたのかもしれないし…なんにせよ「死にたい」だとか「自殺」だとかいう発想につながるハードルは大人になった今よりも低かったとともに「死」が成す結果を過信していたようにも思う。そしてそれを思うタイミングと勢い次第では、私だって自殺を選んでいたかもしれない。今でさえも「死」は未知のものであってそれがどんなものなのか説明するのは困難だけれど、当時は本当に全く理解していなかったからこそ、そうだったと思う。

 

登場人物の多くは「死」を以ってなにかを成そうとしていた。自分の「死」に対して単に「命が絶える」ということ以外の現象を期待していた。そこから互いに死にたい理由を話し合うことによって「果たしてそれは"死"を以ってなせることなのだろうか?」「生きてこそ成せることなのでは?」ということに気付いたり、自分以外の参加者に対して「助けてあげたい」「生きてほしい」という気持ちを抱くことになる。

伝えたいことは生きて伝えるしかない。解決したいことは生きて解決するしかない。嫌な奴らにとってはこちらの「死」なんて"ちょっとした誤算"程度にしかならない。…彼らが集団自殺を中止したのは、自分が命を捧げても自分たちが思うようなことは成し遂げられないことに気づいたからなのだと思う。命は確かに重い、重く扱われるべきだけれど、軽く扱われてしまうことだって多くあるのが現実だから。

この映画を観た「死にたい」と思ってしまう若い子たちが、「自分が“死”をもって成し遂げようとしてることは本当に"死”をもってなせるのか?」と考え直すきっかけになるならすごく素敵だなぁ。願わくば、映画の人物たちと自分を重ねて見るだけでなくきちんと自分自身の気持ちもどこかに吐露して、少しでも前を向くことができたら。

ただし、こういう話って話す相手を間違えると悪戯に煽られたり自分の苦悩に酔ってしまって負の方向に飲まれるから、やっぱりそういうのは自殺防止ダイヤルとか心の相談室的なところにかけるのすごく有効だと思う。知らない人だからこそ話せる部分ってあるし、そのほうがフラットな状態で何も気にせず出し切れるだろうし、相手は話を聞くことに特化しているしね。

 

でもまあ、実際にこの映画のこういうメッセージ性が響くのは「自分の命には価値がある(と信じたい)からこそ死にたい」とか「自分の死による結果に希望がある」という…自己肯定感がある・あるいは自分の命は重いという認識が根底にあるタイプだけで、いわゆる鬱状態のような…どんなことを考えても結論が「自分には価値がなく、自分さえいなければ良い」に着地しちゃうような心理状態の人(大人の自殺はこちらの割合が多そう)には全く響かない話でしょうね。…そういう人は映画を見てとかそういうことより適切な治療が必要だからね。

 

調べてみたら原作はまた少し設定が違うようなので、原作も読んでみようと思います。

原作はこちら

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強く可愛く生きたいな

最近、「女が嫌いな女」みたいなのを女が語って盛り上がるバラエティ番組をみた。たしかに共感するネタもあったのだけれど、それ以上にカメラの前で楽しそうに上から目線で同性の悪口をいってる絵面が不快すぎて、その番組を見るのをやめた。ああいうのはお笑いのあるあるネタが程よいもので(横澤夏子のネタとか結構好き)、ああやって普通にあーでもないこうでもないって話し合っちゃうと本当に見苦しいただの悪口なのよね。

 

それを見ていてふと思い出したのだけれど、私も「女が嫌いな女」という感じで「ぶりっこ」だとか言われて同性から嫌悪感や悪意を向けられたことが何度かある。それは決まって"同じ空間には居るけど言葉は挨拶程度しか交わしていない"くらいの距離感の、よく知らない人にそういう態度をとられるのだ。例えば、同じ飲み会にいたけど別テーブルだったから個人的には特に話してない人とか。仲の良い友人達には「知らない人に一方的に嫌われることあるよね()」とネタにされている。実際は女子校育ち・アルバイトも女性ばかりの職場・就職先も女性が多い会社におり、ずっと人間関係は良好なので「女に嫌われる女」という感じでもないと思うけれど。

 

一時期は少し気にして「女に嫌われる女」について検索してみたりしていた。調べてみると"女ウケ(同性ウケ)が悪い女"というのは、「ぶりっこ」「男に媚びてる」「男の前で態度が変わる」「男ウケを意識しすぎ」などという要素が出てきた。逆に女ウケが良い女は「さばさばしている」「自分を貫いている」「男に媚びない」という感じ。服装でいうと、いつの時代も鉄板な「モテ服(女子アナみたいな服?)」は同性ウケが悪くて、流行を取り入れたり個性を出したりするオシャレは同性ウケが良いと。メイクも、ナチュラルな色味や可愛らしいピンクを使ったメイクは「モテメイク」とされ、赤リップや奇抜なカラーメイクなどは「女ウケ」「男に媚びない」とされている様子。まさにぱっくり正反対。え、要するにモテそうな女は嫌われて、男ウケわるそうな女が好かれるってこと???(この世の中には男女ともに好かれる人気者も存在するけども…!)

 

私は所謂モテ服みたいな方向性の甘めなテイストが好きだし、喋り方はさとう珠緒さんに似ていると言われる。(これについては口調じゃなくて声質が似ているのかも。)おそらくそのあたりが「ぶりっこ」とか「男に媚びてる」という風にとられるのだろう。特に、遠目で見ると服装だとか声の響きだけがなんとなく入ってくるから、よく知らない人の目には特にそのように映るのだろう。

だけど私はそう見られることがあるのかもという点については納得した上で、自分を変えようとは思わなかった。むしろ変える必要がないとわかって安心した。

「男ウケ意識しすぎ」だとか「男に媚びてる」だとか、「女が嫌いな女」で挙がる意見の多くは男性の存在が絡んだ見方なのだ。思い返せばそういった嫌悪感や悪意を向けられるのはいつも男女混合の場だった。道理で女性だらけの場では人間関係良好なわけだ。しかし…男ウケ云々ぶりっこ云々言ってる人って、私からしたら「そういう見方をするあなたたちの方が男の目線を意識しすぎじゃね…?」の一言に尽きる。

同性を見る時に「自分/相手」ではなくて「自分/(男性)/相手」という見方をしているわけじゃないですか。常に異性の存在を間にはさんで考えてしまっている。可愛い服を着たり可愛い態度をとることが「男ウケ」「男に媚びてる」としか捉えられない、男ウケ悪そうなファッションや態度をとることでしか「男に媚びない」を表現できないのって…すごく勿体ないし不自由じゃないのですかね。異性の存在に自分の選択や感情を振り回されすぎなのでは?そんな視点であーだこーだ言われましても知らんがな。

 

「自分がどうなりたいか」の中には「どう見られたいか」も含まれたりするので、他者と関わって生活している以上「他人の目を意識していない」とは言えないけど、それを含めて自分のための表現なので、私は自分の為に自分の好きな服をきて好きなメイクをしてなりたい自分に近づけるように振る舞っていると自信をもって言える。だから私は大して知らない人にぶりっこだのなんだの言われてももう気にならない。

 

意地悪な態度をとられてされてくよくよしてた頃、仲良しな先輩に「"可愛い"を貫くあなたはハードボイルドな子だと思ってる」と言ってもらえたことを誇りに思います。強く可愛く生きたいな。