人見知りは「甘え」じゃなくて、1つの性質だ。

最近、「人見知りは甘えだ!」「人見知りだというのは自己保身」という風潮がある。それが「ド正論!」「その通り!」という空気でツイッター上に拡散されているのを見るたびに、私は人格を否定されているようで傷ついてしまう。

 

私は27年間「人見知り」として生きてきた。一応、社会人としてそれなりにちゃんと生活しているけど「人見知りが治った」とは思わない。小さい頃のように母の後ろに隠れているわけにはいかないので苦手なりに努力をしているが、どんなにそれを重ねても「人に話しかける」ということへのハードルの高さは変わらない。何年経っても電話対応はいつも緊張するし(それこそ高校時代のアルバイトの頃からあることなのに)、自分からかける場合は話す内容や想定できる会話での受け答えを文字におこしてから電話をするくらいだ。問い合わせを受ければ緊張のあまりおかしな受け答えをしてしまうこともしばしば。会社ですれ違いざまに挨拶するのに上手く声が出ずに口をパクパクさせるだけになってしまうことも多々あるし、呼出ボタンがないお店では店員さんを呼ぶのに時間がかかる。美容室の予約電話を入れる勇気が出ずに1日中うじうじして終わるなんていうこともある。就活時には、人とのコミュニケーションが少なそうな職種…工場のライン作業をして生きていこうかと本気で考えていた(「4大卒の女子がそれは…」と周りに説得されて、結局会社の事務職だが)。甘えもくそも、「自分は人見知りではない」と思うのは無理があるし、これは生まれもってしまった性質であるという風に受け入れ、その上で努力するしかないと思って生活している。

 

「人見知りである」と発言することや人見知りという性質それ自体に否定的な風潮が見られるようになったのは、著名人の人見知りに対する見解がSNSやネットニュースで拡散されたりしたことが大きいと思う。私も何度もそのような流れを目にした。

アンタッチャブルザキヤマこと山崎さんは、

"人見知りの人たちは、これを言ったら嫌われるのではないかと感じ取ってしまい、結果何も言えなくなるという場合が多い。しかしそれは傲慢だ。"嫌われちゃう"ってことは、嫌われていないと思っているということ。嫌われてないと思ってるという傲慢さがある。"

というような内容のことを言っていたそうだ。

また、最近だと星野源さんという方の見解が度々話題になっている。これは彼自身が「周りに嫌われたくない」という思いからコミュニケーションを放棄し人見知りを自称していた…ということにある日気づいたというお話で、特に拡散されたのは

"「人見知りで」とさも被害者のようにいうのは、「自分はコミュニケーションをとる努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言していることと同じだと思った。"

という部分だった。これもまた、ザキヤマさん同様に「人見知り」ということが「嫌われたくない」というところからくる傲慢である、という話だ。(星野さんの場合は「人見知りの人全般」という話ではなく「自分の場合は」というお話なんだけど、これは抜粋されて拡散されているうちにどんどん「人見知り全般」の話として議論されていた。)

私はこれらに全く共感も反省もできなかった。なぜなら、私は初対面で嫌われることを恐れながら向き合うことなんてないから。好かれるとか嫌われるとかそういうことを気にする地点に至れていないからだ。「こんにちは」「はじめまして」という定型句や「はい」「いいえ」の相槌ですら上手く声に出せずにカスッカスの声を絞り出すところで精いっぱいなのだから、そんなこと考えられるわけがない。そういうことを考えられるのは、会話が終わって一人になってからだ。自己紹介のごとく「人見知りなんです。(=気を遣ってください!)」なんて言うことだってない。「何話したらいいかわかんない><沈黙気まずい><」みたいな次元ではないのだ。ただ、精一杯話そうとするも顔がこわばってしまったり、声が小さくなってしまったり…上手く受け答えができないことが多々ある。楽しい気持ちや仲良くなりたいという気持ちが緊張によりうまく表現できずに、「怒ってる?」「つまらない?」と気遣わせてしまう時もある。私はそんな時に「私、人見知りしてしまって、上手く話せなくてごめんなさい。とっても楽しいんですけど、緊張しちゃって…」などと言う時がある。それは勿論「気を遣ってください」という意味ではない。自分の受け答えの至らなさを詫びる意味、緊張により態度で示すことが出来なかった気持ち(=楽しい・仲良くなりたい等)を補足しているまでだ。もしこれが"甘え"として嫌悪感を抱かれるのであれば不快にさせてしまって申し訳ないけれど、そもそも悪意のない言葉に対してそういう受け止め方をする人とは人見知りの件がなくても噛み合わないのだろう。

 

誰にだって得意・不得意があって当たり前だ。しかし大人になるとそれがどんな原因であろうが"仕方ない"で済まされないことは多く、特にコミュニケーションは生きていくうえで必要なものだから、人並みに近い程度までは努力でうめていかなければならない。それでも、人見知りという自分の性質を否定する必要はない。その性質やそれを自称することを「甘えだ」と言ってくる人なんて気にしなくていい。そういう人は、その人自身が「人見知り」という言葉に甘えていた張本人であったか、あるいは想像力が乏しいと言ったところだろう。私は人見知りに悩まさることも多いけど、これも個性でありこれで良かったと思えることもある。誰とでもスムーズ話せるわけではない分、なかなか上手く振る舞えない中でも努力して築けた人間関係はとても大切に思えるし、上辺だけの煩わしい人付き合いが発生しにくいし。「自分を人見知りだと思わない」「人見知りだと口にしない」とすることで人見知りが解消されるのならそれは万々歳。だけど、私は表面的にそれなりに振る舞えても根本的に"人見知り解消"という風にはなれなくて、無理に背伸びをしてプルプル立っているだけに過ぎない。だから、自分が人見知りであることを認めたうえで努力したいと思っているし、これからも必要だと思えば「人見知り」だと口にすると思う。それが私にとってはありのままの自分として人と向き合う術であり、相手だってまっすぐに向き合ってくれる術でもあると私は思っている。

 

※これもまた、「人見知り代表」としての代弁ではなくて、自称人見知りである私個人の話である