埼玉県人が翔んで埼玉を観てきた。

私の実家は所沢。私は埼玉県人なのだ。

本来であれば新所沢の映画館(最近キレイになったと風の噂できいた)で観るべきだったのだけれど、残念ながら仕事の都合でなかなか県内の映画館に行けず、六本木などという都会指数の高い映画館で観てしまった。「ここで笑うの埼玉県人だけじゃん」と思うような小さいネタでつい笑ってしまっていたのは私だけではなく、六本木も埼玉化が進んでいる模様。

 

これまで「ダサイタマ」と言われることについて、率直な感想としては「ピンとこない点で馬鹿にされて反応しにくい」という感じだった。例えば田舎くさい様子を表すのに「埼玉のヤンキーに居そう」みたいな表現を聞いたことがあるけれど、私が住んでいる地区ではヤンキーなんて見たことがなかった。大学時代に都内で飲み会をすると「家、埼玉なの!?遠くない!?」と言われたりもしたけれど(その輪は神奈川県民が多かった)、実際の所要時間としてはみんなと殆ど変わらなかったし私自身遠いと感じたことはなかった。終電の時間も遅い方だったので終電を理由に輪から途中離脱しなければならないということもなかった。

都心が"近所"といえるほど近いわけではないがそこそこアクセスも良い、都会ではないがド田舎でもない普通の住宅街で育った私は、埼玉での暮らしに何も不満を感じたことはなくほかの土地に劣っていると思ったこともなく、「何もなくて田舎なダサイタマ」というイメージで埼玉を見下してくる人とは話がかみ合うはずがなかった。いちいち否定するのも面倒なので何となく「そうそう、ださいたまなの~」とか言ってヘラヘラしていたけれど、"埼玉県在住だというだけで覚えのないことで一旦見下される"というその流れは非常に面倒くさくて鬱陶しかった。そんなわけで大学時代は出身を言う流れにうんざりして「こりん星から来ました」と答えていた。

しかし、劇中で加藤諒演じるZ組の生徒が「悔しいよ!住みやすくていいところじゃん!」と言ったのはなんだか心にグッときた。完全コメディで「感動した」というのもおかしな話かもしれないけれど、感動した。そう、ものすごく印象的なものはないけどほどほどに何でもあって住みやすくていいところ。それなのに何故よく知りもしない人に「埼玉は何もない」「ダサイタマ」だとか馬鹿にされてヘラヘラしてなきゃならないのかと!埼玉県は見下していいみたいな風潮意味わからん!!バカにされるたびになんとなく抱えていたモヤモヤが加藤諒のセリフでしっかりと言葉にされて、なんだかとても気持ちが良かった。

 

兎にも角にも、この映画を観てからは埼玉県出身であることがとても誇らしくなった。「私は埼玉県人です」ってめっちゃ言いたい。今後は出身地をきかれたら相手の反応を面倒くさがらずに「埼玉県」と堂々と言いたい。埼玉ポーズしながら言いたい。なんなら翔んで埼玉的な位置づけでは「所沢」というのもちょっと誇らしいし()、今私が中高生だったらプリクラ撮るときに埼玉ポーズしまくりたい。

映画『翔んで埼玉』ありがとう…!

 

余談だけど、そもそも「関東は東京・神奈川に次ぐ3番手争いで埼玉VS千葉」みたいな構図って本当にあるの…?所沢は千葉と結構距離があるからなのか、全然そんな風に意識したことがなかった。テレビとかでもたびたびその構図を持ち出されているのを見るけれど「????」って感じ。張り合うほどお互いのこと知らないし意識もしてないよね。

 
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「死にたい」をどこかで吐き出してみること

今更ながら『12人の死にたい子どもたち』を観てきた。(※映画の内容のネタバレあるので嫌な方は読まないでくださいね。) 

予告やポスターなどをチラッと見て、てっきり「自殺願望のある未成年が集団自殺のために集まるも、集合した部屋では既に何者かに殺されたと思しき死体があり、"この中に殺人犯が混ざってる?"”自殺したいけど殺されるのは嫌!”と疑心暗鬼な探り合い潰し合いのバトロワ展開」みたいな物騒な展開を想像していたのですが。ていうかそういうのを想像させるような宣伝の仕方をしていたよね?ところが「どこで血みどろ展開に!?」「くるか?今か!?」「最後くるか!?」と構えているうちに普通に平和に終わってしまって、上映後のシアターの空気も「え…???」「イイハナシダッタネー(棒)」という空気が流れておりました。

鑑賞後にあらためてホームページをみてみたら「厚生労働省の自殺防止ポスターとタイアップ」とか書いてあるのよね。…なるほどね。

 

ちなみにタイトルで気付けば良かったのですが、こちらの作品のパロディです。

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そんな感じで、予告に釣られてバトロワ展開を想像していた人たちからすると「俺たちはこんなイイハナシを観に来たんじゃねえ…」という感じだし、逆に予告を見て「出演者は好きだけど怖そうだから観れない…」とか思ってた人は観ても平気だったんじゃない?みたいな、なんとも勿体ない予告編詐欺だと思う。インパクトがあればいいってもんじゃない。だけど、まあこういう映画だったんだなってことを受けてあらためてこれはこれで良い作品だったと思ったりもしたので、この作品を通じて考えた「未成年の自殺」についての考えを記そうと思う。

 

まさに今朝にも「小学生が2人で飛び降り自殺」というニュースを見たばかりなのだけれど。未成年の頃ってすごく不安定で、「死にたい」という答えが出てしまいやすいと思う。私も昔はつらいことがあると「自殺したら楽になれるかな?」「死にたいな」「はいはい、私が死ねばいいんでしょ?」だとか本気で思うことが何度もあった。今思えばその思考は軽率だけれど、その時は本当に苦悩を抱えていたし自分なりに本気だった。自らの「死」が何かを伝えるあるいは何かを変えてくれるようなすごく大きな意味を持つ方法のように思えていたのかもしれないし、単なるリセットボタンみたいな感覚だったかもしれない。悲劇的に散ることがドラマチックで美しい結末のように思っていたのかもしれないし…なんにせよ「死にたい」だとか「自殺」だとかいう発想につながるハードルは大人になった今よりも低かったとともに「死」が成す結果を過信していたようにも思う。そしてそれを思うタイミングと勢い次第では、私だって自殺を選んでいたかもしれない。今でさえも「死」は未知のものであってそれがどんなものなのか説明するのは困難だけれど、当時は本当に全く理解していなかったからこそ、そうだったと思う。

 

登場人物の多くは「死」を以ってなにかを成そうとしていた。自分の「死」に対して単に「命が絶える」ということ以外の現象を期待していた。そこから互いに死にたい理由を話し合うことによって「果たしてそれは"死"を以ってなせることなのだろうか?」「生きてこそ成せることなのでは?」ということに気付いたり、自分以外の参加者に対して「助けてあげたい」「生きてほしい」という気持ちを抱くことになる。

伝えたいことは生きて伝えるしかない。解決したいことは生きて解決するしかない。嫌な奴らにとってはこちらの「死」なんて"ちょっとした誤算"程度にしかならない。…彼らが集団自殺を中止したのは、自分が命を捧げても自分たちが思うようなことは成し遂げられないことに気づいたからなのだと思う。命は確かに重い、重く扱われるべきだけれど、軽く扱われてしまうことだって多くあるのが現実だから。

この映画を観た「死にたい」と思ってしまう若い子たちが、「自分が“死”をもって成し遂げようとしてることは本当に"死”をもってなせるのか?」と考え直すきっかけになるならすごく素敵だなぁ。願わくば、映画の人物たちと自分を重ねて見るだけでなくきちんと自分自身の気持ちもどこかに吐露して、少しでも前を向くことができたら。

ただし、こういう話って話す相手を間違えると悪戯に煽られたり自分の苦悩に酔ってしまって負の方向に飲まれるから、やっぱりそういうのは自殺防止ダイヤルとか心の相談室的なところにかけるのすごく有効だと思う。知らない人だからこそ話せる部分ってあるし、そのほうがフラットな状態で何も気にせず出し切れるだろうし、相手は話を聞くことに特化しているしね。

 

でもまあ、実際にこの映画のこういうメッセージ性が響くのは「自分の命には価値がある(と信じたい)からこそ死にたい」とか「自分の死による結果に希望がある」という…自己肯定感がある・あるいは自分の命は重いという認識が根底にあるタイプだけで、いわゆる鬱状態のような…どんなことを考えても結論が「自分には価値がなく、自分さえいなければ良い」に着地しちゃうような心理状態の人(大人の自殺はこちらの割合が多そう)には全く響かない話でしょうね。…そういう人は映画を見てとかそういうことより適切な治療が必要だからね。

 

調べてみたら原作はまた少し設定が違うようなので、原作も読んでみようと思います。

原作はこちら

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強く可愛く生きたいな

最近、「女が嫌いな女」みたいなのを女が語って盛り上がるバラエティ番組をみた。たしかに共感するネタもあったのだけれど、それ以上にカメラの前で楽しそうに上から目線で同性の悪口をいってる絵面が不快すぎて、その番組を見るのをやめた。ああいうのはお笑いのあるあるネタが程よいもので(横澤夏子のネタとか結構好き)、ああやって普通にあーでもないこうでもないって話し合っちゃうと本当に見苦しいただの悪口なのよね。

 

それを見ていてふと思い出したのだけれど、私も「女が嫌いな女」という感じで「ぶりっこ」だとか言われて同性から嫌悪感や悪意を向けられたことが何度かある。それは決まって"同じ空間には居るけど言葉は挨拶程度しか交わしていない"くらいの距離感の、よく知らない人にそういう態度をとられるのだ。例えば、同じ飲み会にいたけど別テーブルだったから個人的には特に話してない人とか。仲の良い友人達には「知らない人に一方的に嫌われることあるよね()」とネタにされている。実際は女子校育ち・アルバイトも女性ばかりの職場・就職先も女性が多い会社におり、ずっと人間関係は良好なので「女に嫌われる女」という感じでもないと思うけれど。

 

一時期は少し気にして「女に嫌われる女」について検索してみたりしていた。調べてみると"女ウケ(同性ウケ)が悪い女"というのは、「ぶりっこ」「男に媚びてる」「男の前で態度が変わる」「男ウケを意識しすぎ」などという要素が出てきた。逆に女ウケが良い女は「さばさばしている」「自分を貫いている」「男に媚びない」という感じ。服装でいうと、いつの時代も鉄板な「モテ服(女子アナみたいな服?)」は同性ウケが悪くて、流行を取り入れたり個性を出したりするオシャレは同性ウケが良いと。メイクも、ナチュラルな色味や可愛らしいピンクを使ったメイクは「モテメイク」とされ、赤リップや奇抜なカラーメイクなどは「女ウケ」「男に媚びない」とされている様子。まさにぱっくり正反対。え、要するにモテそうな女は嫌われて、男ウケわるそうな女が好かれるってこと???(この世の中には男女ともに好かれる人気者も存在するけども…!)

 

私は所謂モテ服みたいな方向性の甘めなテイストが好きだし、喋り方はさとう珠緒さんに似ていると言われる。(これについては口調じゃなくて声質が似ているのかも。)おそらくそのあたりが「ぶりっこ」とか「男に媚びてる」という風にとられるのだろう。特に、遠目で見ると服装だとか声の響きだけがなんとなく入ってくるから、よく知らない人の目には特にそのように映るのだろう。

だけど私はそう見られることがあるのかもという点については納得した上で、自分を変えようとは思わなかった。むしろ変える必要がないとわかって安心した。

「男ウケ意識しすぎ」だとか「男に媚びてる」だとか、「女が嫌いな女」で挙がる意見の多くは男性の存在が絡んだ見方なのだ。思い返せばそういった嫌悪感や悪意を向けられるのはいつも男女混合の場だった。道理で女性だらけの場では人間関係良好なわけだ。しかし…男ウケ云々ぶりっこ云々言ってる人って、私からしたら「そういう見方をするあなたたちの方が男の目線を意識しすぎじゃね…?」の一言に尽きる。

同性を見る時に「自分/相手」ではなくて「自分/(男性)/相手」という見方をしているわけじゃないですか。常に異性の存在を間にはさんで考えてしまっている。可愛い服を着たり可愛い態度をとることが「男ウケ」「男に媚びてる」としか捉えられない、男ウケ悪そうなファッションや態度をとることでしか「男に媚びない」を表現できないのって…すごく勿体ないし不自由じゃないのですかね。異性の存在に自分の選択や感情を振り回されすぎなのでは?そんな視点であーだこーだ言われましても知らんがな。

 

「自分がどうなりたいか」の中には「どう見られたいか」も含まれたりするので、他者と関わって生活している以上「他人の目を意識していない」とは言えないけど、それを含めて自分のための表現なので、私は自分の為に自分の好きな服をきて好きなメイクをしてなりたい自分に近づけるように振る舞っていると自信をもって言える。だから私は大して知らない人にぶりっこだのなんだの言われてももう気にならない。

 

意地悪な態度をとられてされてくよくよしてた頃、仲良しな先輩に「"可愛い"を貫くあなたはハードボイルドな子だと思ってる」と言ってもらえたことを誇りに思います。強く可愛く生きたいな。

 

「店員さん」を「定員さん」と書く人が気持ち悪い

ネット上での投稿を見ていると「店員」を「定員」と打つ人が結構多くていつも気になってしまう。正しい言葉は知っているけれど敢えて話し言葉として崩しているとか、読み方が同じものをうっかり誤変換してしまうならばそこまで気にならないけれど、小学生で習う漢字で構成されていてしかも一般的によくつかわれている言葉なのにずっと間違いに気づかずに堂々とそれらを連発していることがすごく気持ち悪く感じる。

 

「店員」と「定員」は発音が似ているだけで、意味はまったく違う。この2つの言葉が混同してしまったら、全く意味が通じない(実際は誤字であろうと読み手が推測するから意味がわかるけど)。漢字を習う前くらいの子供がどちらも「てーいん」という音で覚えて混同してしまうのはよくあることだろうしわかるけど、いい大人が「店員(てんいん)」と「定員(ていいん)」の区別ができないのはどうしてなのだろう。「店」は小2、「員」は小3で習う漢字だし、それなりによく使っている言葉だろうに。普段「定員さん」と書いている人は、「店員さん」という文字は読めないのだろうか。「このエレベーターの定員は○名です」という文をどのように捉えるのだろう。

 

文章を読んでいても、「店員・定員」「延々・永遠」…あとは「気をつける・きおつける・きよつける」とか「言う・ゆう」あたりの間違いを投稿している人をみると、内容には何の問題もなく丁寧な敬語だったとしても「この人マトモじゃない」と思ってしまう。もうこれ、教養とか語彙力とかいう問題じゃなくて、注意力のなさとかそういう点で異次元すぎてすごく気持ち悪い。傘の柄部分を横に持ってブンブン振って歩く人に遭遇した時と同じくらい「うわっ…」ってなる。

 

しかし匿名の掲示板だとそういう誤字があれば指摘されているのを見かけるけれど、友達とかだと指摘しにくいものですね。嫌な気持ちにさせてしまいそうだし、伝え方が難しい。「いちいち細かいことを言う嫌な人」という扱いをされかねない。言葉が間違っていても意味をくみ取って流してあげるのが大人同士の付き合いなのかなって思うけれど、それもある意味冷たいですよね…。なんだろう、鼻毛が出てる時に指摘するのは親切なのか否か問題的な…。まあ(関係良好な)両親や配偶者あたりが気付いたら教えてあげてくれ…という感じなのかな。私も両親や彼からの指摘なら、ひねくれたり恥ずかしがったりせずに「えーー!がーん!そうだったの!?」くらいで直せそう。

 

ロリータ服って可愛いよね

ロリータモデルの青木美沙子さんの記事『私がロリータであることを伏せて「出会い系アプリ」を使った理由』

gendai.ismedia.jp

が少し話題になっていた。

「男ウケのためにロリータやめるなんて無理!自分をつらぬく!結婚して子供を産むことも、好きな事を仕事にしてそれを貫くことも同様に尊い!」というのはすごくわかる(私も男ウケより自分ウケ派だし、ロリータ服も好きなので)けど、「自分を貫く」というところで無暗に尖って攻撃的になってしまうのは勿体ないな、と彼女のコラムを読んでいて思った。

 この記事で紹介されていた「自分がロリータ服を着ていることを伏せた状態で出会い系アプリで人とやりとりし、初対面の日にロリータ服で登場したらドン引きされて嫌な反応をされた」というの、これは青木さんも少し意地悪だと思う。そんなの、わざと引かれるような状況を作ったとしか思えない。たしかに「ナース」というのも嘘ではないけれど、お互いの姿を知らない状態で出会うからこそ、驚かせてしまうであることが予測できる特徴は伝えるべきだったんじゃないかな。それは別にロリータに限ったことじゃない。逆の立場で考えても、私だって「30代・医師」とか「30代・教員」とかそういう情報で、出会ってみたら金髪でピアスだらけのお兄さんが来たらびっくりするし上手く反応できないかもしれない。でも事前に「プロフィールも本当なんですけど、見た目はこうなんです。」って言われていたら「そういう人もいるんだ!へえ!おもしろ!」と思うし、会った時も和やかに「ほんとだ!プロフィールとはイメージが違うけど、似合いますね~!」って反応できる気がする。

青木さんは、ロリータ服に偏見がある人は勿論だけどそうでなくても驚かせてしまうようなやり方を敢えてとって「ほらね、ロリータってこういう反応される!」と卑屈になってしまっているような気がした。相手の反応が失礼なのも事実だけれど、彼女の方だって最初から真剣に相手に向き合って出会う気なんてなくて、そういう反応を確かめるために敢えてそういう出会い方をしただけでしょう…出会い系で真剣に相手を探している人達に対してすごく不誠実だと思う。

 

彼女の過去のコラムを読んでみると、ロリータを説明するために「ロリータとロリコンとは違うんです!」とロリコンを非難する言い方をしたり(私個人としてはロリコンという性的嗜好を持つこと自体は蔑まれるべきことではなく、非難されるべきなのはそこから犯罪に行動をうつしてしまう人のみだと思うので、なんだか違和感があった)、「ロリータとぶりっことは違うんです」とぶりっこを蔑む言い方をしたりと、ロリータ代表としてロリータを説明するにしてはずいぶん攻撃的な気がした。ロリータの魅力を説明するのに他者を非難することは必要なのですか…?と疑問に思ってしまう。ロリータファッションが色々な方向で誤解されがちで不快な思いをしているのだろうが、「あれと一緒にしないで」「あんな奴らとは違うの!」という言い方では誤解は解けても魅力は伝わらず、閉鎖的な世界として"異物"のままになってしまうのではないか。それよりも「こんな素敵なことがある」「ロリータ界のこんな文化にはこんな意味がある」など魅力を紹介していくうちに自然と誤解を解くの方が有効な広め方と言える気がする。

 

ロリータ服って、街を歩くだけで指をさされたり勝手にカメラむけられたり笑われたりするし、男ウケなんか興味ないのに「男ウケ悪いよ」なんて謎に上から目線なアドバイス受けたりするし、「ゴスロリ」とか「コスプレ」という正しくない括られ方をしたり、青木さんも嫌な思いをたくさんしてきてると思う。だからこそ棘のある言い方になってしまうのもわかるのだけれど、それでも「自分を貫く」というのならば、誤解されてることへの不満をとげとげしく語るよりも、楽しく魅力を語ってほしいと思った。

 

FEELCYCLEの退会の仕方について

以前こちらの記事でも通販などの会員登録と退会について触れたことがあったけれども、

yogoretemoiino.hatenablog.com

先ほどの記事を書いて、そういえばフィールサイクルの退会もまたややこしかったということを思い出したのでここに書いておく。

 

web上のマイページからの退会手続きはできないようだったので受付で退会を申し出たところ、しつこく引き留められることはなく「マンスリー会員(=定額行き放題)を解約すると、自動的にチケット会員になる」という説明を受けた。つまり、月々の引き落としはなくなるけれども会員としてのアカウント登録は継続されて、チケット(という名の都度クレカ引き落とし)でのレッスンは引き続き予約が可能とのこと。「退会」の解釈違い…?と思いつつ、それがここでの「退会」の手続きならばとりあえず…と、その解約手続きをした。

 

しかし数か月後、もう利用することもないだろうにこのまま無駄に会員としてアカウントを持つのも気持ち悪いなーと思い退会方法を調べたところ、ホームページのFAQをみても「解約」とはチケット会員になることとされており、そのチケット会員を解約すること、即ち完全なアカウント利用停止の案内が一切ない。なにこれ怖い!

せめてクレカ情報(原則としてクレカ決済のみの対応なので登録していた)だけでも削除しておこうとしたところ、マイページからはクレカ情報の変更はできるものの削除はできない。結局、完全な利用停止を求めてカスタマーセンターに連絡をし、メールで何通かの事務的なやりとりを経て無事にアカウント(マイページ)の利用停止処理とクレカ情報の削除処理をしていただけた。

結果的には削除してもらえてよかった(対応も丁寧で質問にもきちんと的確に答えてくれた)けど、この「解約」と称して解約していない・利用停止の方法が明記されておらず、問い合わせてはじめて対応してもらえる…という点だけはちょっと意味不明だよ~…思った。冒頭に貼った記事にも書いたことだけれど、会員登録がわかりやすくて簡単なら、退会の手続きも同様にわかりやすく明記しておく方が印象がいい。

 

ということで、マンスリーやリミテッドを解約したものの、いつまでもチケット会員として籍が残っていて解約できていないことに不安や疑問を感じている人はカスタマーセンターにその旨をご連絡することをおすすめします。スムーズに対応してもらえますよ。

 

最後に。。私のように退会できなくて困惑してる人がいたら…と思ったのでこの記事をかいたけれど、フィールサイクル自体は私みたいにコミュニケーションが苦手な人間でも運動を楽しめる良きジムだったと思うし、こうして申し出ればきちんと対応をしてくれるわけなので、興味ある人にはぜひ行ってみてほしいな~、という気持ちは変わらないです。

・・・・・・・・・・・・・・・

追記(2020/01/23)
年始にFeelCycleから会員向けなのかな?ニューイヤーキャンペーンのハガキが届きまして…。カード情報は消してもらえどこういうのは送る仕組みなのね~と…。
退会して結構経つけど、今までそういうDM送ってこなかったのになんか気持ち悪いなぁと思ってしまいました。ね~。

 

FEELCYCLEは意外とコミュ障に優しい環境

大人になると代謝が悪くなるとはいうけれど、こうもみるみる体重が増えていくものなのか。二十歳を過ぎたあたりからそれを感じ始めたものの、(体重が増えたり減ったりなんてよくあるよね)とか思いつつ対策を練らずにいたら体重は増える一方だった。よく考えたら年齢による体の変化のせいだけじゃない。明らかに運動量が減っている。中高生時代のように体育の授業もなければ、大学時代のように広いキャンパス内を歩き回ることもない。今の私の生活といえば、平日は家と最寄駅の往復(片道5分程度)しか歩いていないのだ。(会社最寄駅~会社があるビルは直結なのでほとんど歩かないし、仕事はデスクワーク。)そりゃ太る。

 

そんなこんなで、フィールサイクルというジムに入会した。クラブミュージックに合わせて暗闇の中でエアロバイクを漕ぐというレッスンプログラムのジムである。「are you ready!?」「イェェェェェィ!フゥゥゥゥ!」みたいな掛け合いをしながらプログラムがすすんでいくのが特徴なもので、本来は私のようにコミュニケーション苦手な陰キャは「えぇ…ムリ…」と尻込みするような場所である。しかし実はここ、コミュ障でも一人で楽しく通える場所なのである。入会時こそ説明諸々のためにインストラクターと会話をするが、それ以降は望まない限りほとんどコミュニケーションはない。ネット上で予約をし(バイクの位置を選ぶ形で予約するので、空いてるバイクを探してウロウロすることもなし)、ジムに行く際にはカウンターの機械にカードをかざして「ピッ」とすればチェックイン完了。レッスン中はコール&レスポンスはあるけれど個々に煽ってくるようなこともないし勿論黙々と漕ぐのも可。良くも悪くも目立ったりしない。好きなように楽しんで、終わったらシャワーを浴びて帰宅。コミュニケーションといえば、インストラクターさんがすれ違いざまに「こんにちは~」「おつかれさまでした~」と挨拶しながら通り過ぎるくらい。なのでコミュ障の私にはとっても優しい環境と言えた。常連集団で群れている人も居るけれど、基本はみんな1人だし。だから「コミュニケーションは極力避けたいけど、一人でマシンジムに行っても何をしたらいいかわからない」という人にこそぜひ怖がらず試してみてほしい。

 

レッスンは一番やさしいクラスでも普段運動をしない自分にとっては結構ハードで、ビッショビショに汗をかく。インストラクターの方も「途中できつければ無理せずゆっくり漕いで休んで」とおっしゃってるくらいなので、プログラムの流れに合わせるよう強要されたりはしないから安心だけど。なんとなく「やった!」という感じがして気持ちが良い疲労感があった。運動ってあまり好きじゃなかったけれど「運動=ストレス解消」と言われているのもなんとなくわかる気がした。私は基本的には黙々とやっていたけれど、たまにはコールアンドレスポンスにも参加して大きい声を出すのも気持ちよかった。普段、思いっきり大きい声を出す場なんてそうそうないものだし。体力を使うようになったからか、寝つきも良くなったように思う。

 

そんな感じで頑張って通っていたのだけれども、結果的には1年半ほどで退会してしまった。

理由は2つある。1つは「週2~3回いこう!」とゆるく決めていたことがいつのまにか「週2~3回行かなければ…」という強迫観念に近いものになってしまい、予定が入ってしまって行けない週があったりして通うペースが崩れてしまったり思うようにスケジュールが組めなかったりすると、ストレスを感じるようになってしまったのだ。そうなってきたら、レッスンを受けても以前のように気が晴れなくなってきて、解消されるストレスよりも溜まっていくストレスが大きくなってきてしまった。これに関しては、退会したらすごく気が楽になった。私の体力や性格の問題なんだと思う。

そして2つ目は、1年半通って、周りの人に「痩せた?」とか「綺麗になった」と言われることは増えたのだけれど、自分では特に変化が実感できず、体重の変化も見られず、モチベーションが保てなかったこと。やはり食生活も何も変えずにただ週に2~3コマのフィールサイクル通いだけを取り入れたという状態では、わかりやすく「痩せた!」と思えるような効果が出にくかったみたい。インストラクターさんは「食事は我慢せず、これだけで痩せました!」と言っていたけれど、そもそもインストラクターさんは元々運動をする習慣があっただろうから基礎代謝も違うし、レッスンでほぼ毎日のように1日何コマもこなしているのであればさすがに変わるよね。

 

 

そして現在、フィールサイクルをやめてから1年半ほど経過。生活リズムや食生活など相変わらずで、ただフィールサイクルに通う前の生活に戻りました…ら、なんと太りました。年々体重が増えていく中で「フィールサイクルに通っていた間、体重が変わらなかった」というのはダイエット失敗ではなかった。十分に効果があったんだな…と実感。アラサーにもなると、少しがんばってやっと現状維持できるんですね。何もしなかったら太るんですね。ということで、またダイエットを始めますのでそれについてはまた別の記事で書きます。