FEELCYCLEは意外とコミュ障に優しい環境

大人になると代謝が悪くなるとはいうけれど、こうもみるみる体重が増えていくものなのか。二十歳を過ぎたあたりからそれを感じ始めたものの、(体重が増えたり減ったりなんてよくあるよね)とか思いつつ対策を練らずにいたら体重は増える一方だった。よく考えたら年齢による体の変化のせいだけじゃない。明らかに運動量が減っている。中高生時代のように体育の授業もなければ、大学時代のように広いキャンパス内を歩き回ることもない。今の私の生活といえば、平日は家と最寄駅の往復(片道5分程度)しか歩いていないのだ。(会社最寄駅~会社があるビルは直結なのでほとんど歩かないし、仕事はデスクワーク。)そりゃ太る。

 

そんなこんなで、フィールサイクルというジムに入会した。クラブミュージックに合わせて暗闇の中でエアロバイクを漕ぐというレッスンプログラムのジムである。「are you ready!?」「イェェェェェィ!フゥゥゥゥ!」みたいな掛け合いをしながらプログラムがすすんでいくのが特徴なもので、本来は私のようにコミュニケーション苦手な陰キャは「えぇ…ムリ…」と尻込みするような場所である。しかし実はここ、コミュ障でも一人で楽しく通える場所なのである。入会時こそ説明諸々のためにインストラクターと会話をするが、それ以降は望まない限りほとんどコミュニケーションはない。ネット上で予約をし(バイクの位置を選ぶ形で予約するので、空いてるバイクを探してウロウロすることもなし)、ジムに行く際にはカウンターの機械にカードをかざして「ピッ」とすればチェックイン完了。レッスン中はコール&レスポンスはあるけれど個々に煽ってくるようなこともないし勿論黙々と漕ぐのも可。良くも悪くも目立ったりしない。好きなように楽しんで、終わったらシャワーを浴びて帰宅。コミュニケーションといえば、インストラクターさんがすれ違いざまに「こんにちは~」「おつかれさまでした~」と挨拶しながら通り過ぎるくらい。なのでコミュ障の私にはとっても優しい環境と言えた。常連集団で群れている人も居るけれど、基本はみんな1人だし。だから「コミュニケーションは極力避けたいけど、一人でマシンジムに行っても何をしたらいいかわからない」という人にこそぜひ怖がらず試してみてほしい。

 

レッスンは一番やさしいクラスでも普段運動をしない自分にとっては結構ハードで、ビッショビショに汗をかく。インストラクターの方も「途中できつければ無理せずゆっくり漕いで休んで」とおっしゃってるくらいなので、プログラムの流れに合わせるよう強要されたりはしないから安心だけど。なんとなく「やった!」という感じがして気持ちが良い疲労感があった。運動ってあまり好きじゃなかったけれど「運動=ストレス解消」と言われているのもなんとなくわかる気がした。私は基本的には黙々とやっていたけれど、たまにはコールアンドレスポンスにも参加して大きい声を出すのも気持ちよかった。普段、思いっきり大きい声を出す場なんてそうそうないものだし。体力を使うようになったからか、寝つきも良くなったように思う。

 

そんな感じで頑張って通っていたのだけれども、結果的には1年半ほどで退会してしまった。

理由は2つある。1つは「週2~3回いこう!」とゆるく決めていたことがいつのまにか「週2~3回行かなければ…」という強迫観念に近いものになってしまい、予定が入ってしまって行けない週があったりして通うペースが崩れてしまったり思うようにスケジュールが組めなかったりすると、ストレスを感じるようになってしまったのだ。そうなってきたら、レッスンを受けても以前のように気が晴れなくなってきて、解消されるストレスよりも溜まっていくストレスが大きくなってきてしまった。これに関しては、退会したらすごく気が楽になった。私の体力や性格の問題なんだと思う。

そして2つ目は、1年半通って、周りの人に「痩せた?」とか「綺麗になった」と言われることは増えたのだけれど、自分では特に変化が実感できず、体重の変化も見られず、モチベーションが保てなかったこと。やはり食生活も何も変えずにただ週に2~3コマのフィールサイクル通いだけを取り入れたという状態では、わかりやすく「痩せた!」と思えるような効果が出にくかったみたい。インストラクターさんは「食事は我慢せず、これだけで痩せました!」と言っていたけれど、そもそもインストラクターさんは元々運動をする習慣があっただろうから基礎代謝も違うし、レッスンでほぼ毎日のように1日何コマもこなしているのであればさすがに変わるよね。

 

 

そして現在、フィールサイクルをやめてから1年半ほど経過。生活リズムや食生活など相変わらずで、ただフィールサイクルに通う前の生活に戻りました…ら、なんと太りました。年々体重が増えていく中で「フィールサイクルに通っていた間、体重が変わらなかった」というのはダイエット失敗ではなかった。十分に効果があったんだな…と実感。アラサーにもなると、少しがんばってやっと現状維持できるんですね。何もしなかったら太るんですね。ということで、またダイエットを始めますのでそれについてはまた別の記事で書きます。

パーソナルカラー診断の結果にモヤモヤした話

 

今や雑誌でもネットでもパーソナルカラーの自己診断はたくさんあるけれど、どれも「自分ではどちらとも言えない」と思うような項目が多い。私自身も、自分で似合うと思っている(あるいは友人から似合うと言われる)色が実は「見慣れてる・着慣れてる」からそう感じているだけなのかも?と疑問を抱き、プロにお任せしようと決めた。

しかし、どこのサロンも予約が1ヶ月以上先だったりする盛況っぷり。お値段もお手頃とは言えないサロンが多いので、予約するのもなかなか気軽なものではない。そこで、私が何度か行ってみて感じたことをここにまとめてみた。興味ある人・診断結果にモヤモヤしている人たちの参考になれば。

 

・一人で行った方がいい

2人以上で受けることができるシステムがあるサロンは多いけれど、断然一人で行くのが良い。

アナリストさんはプロの方なので、基本的にはパーソナルカラーシステムに基づいて客観的な判断をしてくれるが、複数人を一緒に見ているとどうしても相対的な判断は入ってきてしまうと思う。例えば、ブルベのテンプレと言わんばかりの"超ブルベ"な人と、一見黄味肌だけど血色はブルベっぽかったり…というなんとも微妙な人が2人で来た時。映える色とそうでない色が明確にわかりやすいのは前者で、後者は「どっちも大して変わらないような…?」というドレープが多々あるのだ。けれど、そうなると後者への判断が無意識のうちに前者との相対的なものになってくる恐れがある。どちらかがわかりやすく振り切っている要素を持つ場合は特に、もう一方は相対的に見た判断をされるリスクが高い。私自身、一度そのような経験をしたけれど、いろいろな面で不快なことが多かった。複数人で診断を受けた友達も同様の感想が多い。繊細な判断をしてほしいのなら、勇気を出して1人で行くことをおすすめする。

 

"ベストカラー"に縛られてはいけない

アナリストさんに「こちらのドレープの方が映えますね」と言われたけれど、正直もう一方のほうが綺麗に見えたんだけどなー…?と思うこともある。「映える」という基準が、パーソナルカラーシステム上の定義と個々の美的センスとでは違うのだから、当然である。例えば顔の立体感についての定義は「立体感があり小顔に見える」が良しとされ、「平面的でぼんやりふんわりしたフェイスラインに見える」のはNGカラーになる。しかし、もし目鼻立ちがくっきりしていてキリッとした顔にコンプレックスを持つ人からしたら、後者の方が「なりたい自分」かもしれない。「これは子供っぽいですね」と却下された色も、少女っぽさを出したい人にしたら「それがいいんだよ!?」と思うかもしれない。だから、アナリストさんの判断は「定義上のもの」として受け入れつつ、却下されたけど自分的にいいなと思った色も「パーソナルカラーの定義上ではベストではないけど、なりたい自分に近づける色」として取り入れていけばいいのだ。特に日常生活では、人柄や声や口調や表情などあらゆる要素が入った上で「似合う・似合わない」と判断されているから、システムとは判断基準が違ってくるはずだ。だから、パーソナルカラーシステムに基づいた判断ではそうだとしても「ベストカラー以外は似合わない」ということではない。好きな色や似合うと思っていた色がベストカラーに入らずとも、「このシステムの基準ではそうらしい」くらいに受け止めれば良い。

そもそもこのシステムは4分類だろうが16分類だろうが、いくつかの要素から統計的に似合うことが多いとされるタイプに押し込められる分類理論。個性や好みは無視されるのだ(逆にその辺を配慮してしまうと、システムとして無意味)。ただただ宗教のごとくベストカラーだけを身に着けるのでは、季節感もなければ個性もない、おまけに自分がなりたい自分でもない…誰得??なことになってしまう。

ラーがどのグループであろうと、身に着けたい色・柄・系統・なりたい自分像を貫いて良いのだ。その中で、色選びやコーディネートに迷った時の基準として「あのシステム上では、自分にはこうした方が合いやすい」という知識を持っていると、より良い判断ができるかもしれない。そういう風に生かせば良い。どうか「ベストカラー以外は買わない」だなんてオシャレの幅を狭めてしまうようなことはしないでほしい。

 

・「顔が著しく映えない色」の扱い

ドレープをあててみて、自他ともに認めるレベルで"顔が著しく映えなかった色"があると「全く似合わない」「この色は金輪際ふれないほうがいい」ばりの言い方をするアナリストさんもいるので、診断を受けて悲しい気持ちになってしまった方もいるかもしれない。しかし、カラー診断の基準は「顔周りに持ってくる色として」「その色の単色のドレスを着るとして」映えるかどうかというところなのだ。つまりそのような色は、ボトムスやカーディガンなどに持ってきたり、顔が映える色の襟やスカーフで顔周りにワンクッションおけば、問題なく似合う場合が多い。扱いさえ気をつければ、パーソナルカラーシステム上は「似合わない」としても、周囲からみたら「似合う色」になりうるのだ。「似合わない色は身に着けてはいけない」ではなくて「似合わない色の扱いを工夫しよう」ということを学べるのがカラー診断。自分の好きな色をアナリストさんに「この色は難しそうですね…」なんて渋い顔をされても、どうかあきらめず好きな色を貫いてほしい。これは骨格診断も然りです。

 

以上が、私が何度か受けて感じたこと。

 

私も最初は「え、この色ダメ…?」「似合うからってこんな色の服きたくないよー…」「そういう系統全く好きじゃない…」「こんなチークの色、全然可愛くない!」と勧められたお洋服やコスメを見てテンションが下がったりしたくちである。だけど、今は自分のPC属性にこだわらず、好きな服をどう組み合わせたらもっと綺麗に着こなせるかを考えたり、今まであまり手を出さなかった系統も「どうやら似合うらしい?」ということで挑戦してみたり、診断結果をポジティブに楽しんでいる。

 

診断結果に気を落とされている方も・これから受ける上で「自分の好きな色がベストカラーではなかったら…」と心配している方も、どうかポジティブに楽しんでほしい

東野圭吾『幻夜』を読んだ

今更ながら東野圭吾の『幻夜』を読了。『白夜行』の姉妹作であることから、2つを絡めて色々と感想を。ちなみにオススメというわけではないので商品へのリンクは貼っておりません…。

(以下、両作品のネタバレあり)

 

白夜行と絡めて考えず、『幻夜』という独立した作品としては面白かったと思う。ただ、白夜行の続編として…美冬を雪穂として読むのならば、この作品は蛇足だったように思う。

白夜行』は、根底に初恋・お互いへの愛情があるからこそ悲しくて綺麗な話だったと思う。どんなに手を汚しても、お互いに他の人と暮らしていても、そこには小学生の頃の彼らがいて身を寄せ合いながら歩いている…そんな物語だった。笹垣が2人をエビとハゼの共生に例えたように"共生"だった。(白夜行のラストシーンの解釈で2人の関係への解釈もわかれるようですが、私は2人が互いに"最愛の人"だったと解釈しています。)彼らの関係性があったからこそ、罪を重ねていくことが物語として深みになっていったと思う。

けれど『幻夜』は、"共生"している2人ではなく"悪女とその駒のうちの1"を描いた悪女物語。『白夜行』とリンクさせることによって考察の幅は広がるけれど、リンクさせずに単品で良かった気がする。私のような視点で『白夜行』を好んでいた人にとっては"白夜行の第二部"としては期待外れだったんじゃないかなと思う。

 

私は雪穂が好きだったけれど美冬は好きになれず、美冬の正体は雪穂なのであろうと思わせるような書き方をされているけれど、雪穂であってほしくない…というのが素直な気持ち。

美冬はあまりにも露骨に悪女くさくて、雪穂のようなスマートさがない。セックス論を語るところや生肉を食べさせるくだりなんて特に知性に欠いており、まるで胡散臭くて気合い任せな自己啓発セミナーのようなノリに思えてしまって…。水原といる時の関西弁や、水原以外にも時々見せる気の強そうな態度を含め、著者が意図的に雪穂のイメージに反するような人物像を描いたのだと思うけれど、色々と必要以上に過激なやり方をとりすぎていて、もはや表に向きの顔ですら、雪穂のように育ちの良さそうな優雅さよりも、"水商売から金持ち旦那をゲットした成金奥様"みたいな感じに思えてしまう。水原への「相談(と言う名の決定事項)」だの「二人の幸せのため」だのと言う口説き文句も、歌舞伎町のホストばりに安っぽくて胡散臭い。巧みな人心掌握というより、脅しに近いようなやり方とハニトラみたいな短絡的なやり方ばかりなんですよね。

 

単なる悪女物語としてはお見事で気持ちいい結末なんだけど、彼女が雪穂なのだとしたら残念でしかない…。

私が手にとった文庫本の『幻夜』の帯には「110万人が慄えた悪女の素顔」と書いてあったけど、美冬が雪穂であるにせよそうでないにせよ、ここには彼女の素顔なんてなかったように思う。気が強い態度も、きつめな関西弁も、あの胡散臭い甘い言葉たちも、すべてはコマを動かすための演技であり、彼女の素顔なんてどこにも明かされていない。

そしてもし美冬が雪穂なのだとしたら…彼女の素顔が見られたのはきっと亮司だけでしょう。そうであって欲しい。

 

そんなこんなで、白夜行"雪穂と亮司の関係ありき"なあの空気がすきだったので、続編・姉妹作としての幻夜は蛇足であったというのが私の印象ですが、白夜行のイメージを壊さないまま幻夜を都合よく解釈するとすれば「夜を照らしてくれていた亮司が居なくなった世界で、1人で暗い夜を生きるための覚悟が雪穂をモンスターに変えた」というところに落ち着くかな…。亮司が命をかけて切り開いてくれた未来を無駄にしない、その未来の続きを自分で切り開いていくためなら手段は選ばない、と。

 

しかし"続編"というにはなかなか上手く繋がらない箇所が多いよね。例えば白夜行のラストシーンから幻夜の最初のシーンに行くまでの期間もすごく短いので、そこまで迅速に雪穂の頃のあらゆることを清算できないよね?という点だったり、新海美冬(本物)のような存在も白夜行には登場しておらず、おそらく浜本夏美がそれにあたるであろうが名前が違うということだったり。そういう点を考えると、幻夜白夜行パラレルワールドのお話として捉えるのが妥当なのかな思う。始まりは白夜行だけど、どこかの分岐点で違う選択をした世界線の雪穂のお話。

3作目もあるか??みたいな空気もあったけれど、もし3作目があるなら今度こそ雪穂や亮司の素顔を見てみたいな。

 

東野圭吾の著書は「これは伏線!」「さっきの伏線、ここで回収!」という調子で回収しやすい伏線が散りばめられているので、普段本を読まない人にもわかりやすい。ミステリー小説の入口として適切だと思うし、あまり本を読まない部類の人が「東野圭吾は読む」「唯一好きな作家は東野圭吾」というのもなんとなくわかる気がした。わかりやすいだけでなく、それでいてどうともとれるような表現も多いから色々考察できる余地があって、読書が好きな人にもファンは多いのでしょうね。

若手俳優やアイドルのカノバレ・カレバレ炎上について思うこと

 若手俳優さんや地下アイドルを応援していると、異性関係での炎上は日常茶飯事だ。有名人のように「気を付けていたけれど撮られてしまった」ならまだしも、若手俳優や地下アイドルのそれは大抵の場合自らバレるようなことをしてしまっている自業自得のカノバレ・カレバレである。

 

 そういうことでファンが騒然としていると、大抵は外野に「ガチ恋ファンきもい」「恋人くらい良いじゃん」「プライベートは自由」「自分が恋人にでもなるつもりだったの?」だとか不快な気持ちを吐露したファンが悪く言われてしまうのが居た堪れない。そういうことじゃないんだよ。多くのファンは「恋人作るな」とか「私が彼女になりたい!」だなんて思っておらず、「年頃のイケメンなんだから彼女の1人や2人居るでしょうね」「可愛いんだし彼氏いるんだろうな…」くらいには思っているし、ステージと客席の越えられない(超えてはいけない)壁をきちんと認識した上で応援しているのだ。それでも、具体的な恋愛事情なんて知りたくない。それは、具体的に相手の顔を知ってしまうと推しの「コンテンツ」としての魅力が半減するからだ。例えばインタビューで恋愛について答える時も、恋愛ソングを歌っても、恋愛モノの演技でも、ふと相手の顔がチラついてしまうことがあると純粋にそのコンテンツを楽しめなくなる。私はそういう営業の人を推した経験はないけれど、若手や地下にありがちな接触イベントでのガチ恋めいた営業も、付き合っている相手を知らなければまだ疑似恋愛コンテンツとして楽しめても、付き合っている相手を具体的に知った状態でそれをされたら複雑すぎる。プライベートを知ってしまうとどうしてもそれがチラつく瞬間があるのは恋愛に限ったことじゃないが、恋愛はそれが特に生生しく感じられるから不快感を覚えやすい。プライベートはプライベートでも、好きな食べ物や趣味や特技を知ることとはコンテンツへの影響が全く違うのだ。ペコ・りゅうちぇるみたいに売り出した時点で既にカップル売りしているならまだ受け入れやすいけれど。

 カノバレ・カレバレでよくあるのは「匂わせ」である。SNSの内容が双方でかぶっていたり、又は一緒に居る相手が誰だかわかるようなものを写りこませたり、2人の共有物が登場してしまっていたりなどパターンは色々。異性ファンが多いのなら熱愛ネタが喜ばれるなんてことはほとんどないし、場合によっては身近な共演者や事務所にも迷惑がかかる。そんなことは容易に想像できるはずなのに、それを自覚せず自ら匂わせるようなことをファンに発信するという軽率さには本当にあきれる。推し自身ではなくて相手側が匂わせを発信していて推しがそれを咎めずにいる場合も同様である。なぜファンに向けてのコンテンツでファンから疎まれるとわかっているそれを発信する(またはそれをする相手を野放しにする)のか理解しがたい。ファンを自身の恋愛においてのスリル・スパイスみたいに扱われているようで不快である。

 

  そして信じがたいことに画像流出というのもカノバレ・カレバレのきっかけとしてありがちなのだ。あれに関してはとにかく生理的に無理としか言いようがない。一般人だってイチャイチャしてる写真をSNSに上げたら疎まれるというのに、推しのそんな画像がどこからか流出してきたら、シンプルに「気持ち悪い」としか言いようがない。流出するということは自分たちのデータフォルダだけに留めているわけじゃないということだし。それも記念撮影のような適度な距離感のツーショットならまだしも、イチャイチャチュッチュしてるところやベッドでの写真などに関しては「芸能人なんだから~」とかいう次元じゃなく「なんでこんな写真ん撮ってんの?どういう状況?きも…」という気持ちである。例えるならば駅の改札前でベタベタイチャつくカップルを見ている時、あるいは学校名もフルネームも垂れ流しで「since: 04.01~」とかやってるDQNカップル垢を見てしまった時みたいな不快感。とにかく気持ち悪いからやめてくれ。

 

 カノ・カレバレに限らずだけど、推しがこういう軽率な行動で炎上するのって本当に情けないし恥ずかしい気持ちになる。「私は○○さんが好きなんです」と言った時に「○○さん?ああ、この前あれで炎上してた人ね()」なんて炎上ネタで覚えられてると恥ずかしい。推しを知らない友人が興味を持って検索してくれた時にも、経歴よりも炎上の痕跡の方が目立って出てきてしまう。「この前炎上してたけど大丈夫?」なんて同情されて無駄に惨めになる。

 

 「プライベートは自由」というのは理解するけれど、推しというコンテンツを楽しむにあたり邪魔になるような面はファンに見せるべきでないと思う。自身が商品である以上、プライベートが露呈してしまえば良くも悪くも商品価値に影響が出てしまうのも事実。自ら発信しているならなおさらだ。どうかそのことを心に留めて、これからもキラキラした姿を見せてほしいなと思う。

 

人見知りは「甘え」じゃなくて、1つの性質だ。

最近、「人見知りは甘えだ!」「人見知りだというのは自己保身」という風潮がある。それが「ド正論!」「その通り!」という空気でツイッター上に拡散されているのを見るたびに、私はもやもやしてしまう。まるで「人見知り」という性質の存在自体を認めないような、そんな空気さえ感じた。

※本来「人見知り」という言葉は子供の性質を表す言葉なので大人に対して使うものではないそうだが、あえてここでは「人見知り」という言葉を使う。

 

私は27年間「人見知り」として生きてきた。社会人としてそれなりにちゃんと生活しているけど「人見知りが治った」とは思わない。小さい頃のように母の後ろに隠れているわけにはいかないので苦手なりに努力をしているが、「自分は人見知りではない」と思うのは無理があるし、これは生まれもってしまった1つの性質であるという風に受け入れ、その上で努力するしかないと思って生活している。

 

「人見知りである」と発言することや人見知りという性質それ自体に否定的な風潮が見られるようになったのは、著名人の人見知りに対する見解がSNSやネットニュースで拡散されたりしたことが大きいと思う。私も何度もそのような流れを目にした。アンタッチャブルザキヤマこと山崎さんは、"人見知りの人たちは、これを言ったら嫌われるのではないかと感じ取ってしまい、結果何も言えなくなるという場合が多い。しかしそれは傲慢だ。"嫌われちゃう"ってことは、嫌われていないと思っているということ。嫌われてないと思ってるという傲慢さがある。"というような内容のことを言っていたそうだ。また、最近だと星野源さんという方の見解が度々話題になっている。これは彼自身が「周りに嫌われたくない」という思いからコミュニケーションを放棄し人見知りを自称していた…ということにある日気づいたというお話で、特に拡散されたのは"「人見知りで」とさも被害者のようにいうのは、「自分はコミュニケーションをとる努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言していることと同じだと思った。"という部分だった。これもまた、ザキヤマさん同様に「人見知り」ということが「嫌われたくない」というところからくる傲慢である、という話だ。(星野さんの場合は「自分の場合は」というお話なんだけど、これは抜粋されて拡散されているうちにどんどん「人見知り全般」の話として議論されていた。)これらが「正論」として拡散され、人見知りに対して人格否定に近い言葉をたくさん目にした。

 

私はこれらに同意できなかった。あまりにも身に覚えがなく、この人達のいう「人見知り」と自分のそれとは違う何かなのか?と疑問に思うくらいだった。私は(そしてきっと多くの人見知りの人達は)初対面で話す際に「好かれる」とか「嫌われる」などと考えられるような地点には至れていない。相槌を打つために声を絞り出すのに精いっぱいなのだから。それに、自分を「人見知りである」と伝えることがあったとしても、星野さんがいうように相手に丸投げするような言い方は絶対にしない。それを伝えるのは、緊張により表情がかたくなってしまっていたりうまく受け答えができなかったりして、楽しい気持ちや仲良くなりたいという気持ちが表現できない時。そんな時に「人見知りしてしまって、上手く話せなくてごめんなさい。とっても楽しいんですけど、緊張しちゃって…」などと、自分の受け答えの至らなさを詫びたり、緊張により態度で示すことが出来なかった気持ちを補足する。もしこれが彼らの言う"甘え"として嫌悪感を抱かれるのであれば不快にさせてしまって申し訳ないけれど。

 

「自分を人見知りだと思わない」「人見知りだと口にしない」とすることで人見知りが解消されるのならそれはそれで素晴らしいけれど、私は自分の性質をなかったことにはとても出来ないので、認めたうえで努力したいと思っているし、これからも必要だと思えば「人見知り」だと口にすると思う。それが私にとって人と向き合う術であり、努力なのだ。こんな私と向き合ってくれて受け入れてくれている友人らに感謝するとともに、私自身も自分が当たり前に出来ることが相手にとってもそうであるとは限らないことを理解し、他人の「得意」「不得意」を軽視しない、想像力のある人間であろうと思う。

ネットでの会員登録・退会のお話

近年は何をするにも会員登録が必要なサービスは多い。なにかをしようとした際に会員登録を求められ、登録無料であれば大して考えもせずとりあえず登録してしまう人も少なくないだろう。

そして多くのサイトは「初めての方(新規登録)」だなんて登録への誘導を大きくしつこく各所にのせているのに、退会となると「退会」というリンクをどこにも貼っておらず、Q&Aの「退会するにはどうしたらいいですか」という質問の回答に飛ばないと退会ページにまでたどり着けないのがデフォルトになりつつあるし、それすらなくて個別に問い合わせないとわからない仕組みになっていたりもする。場合によっては、登録はインターネットでポチっと出来るのに退会は「退会申請書」という用紙を郵送でとりよせてそれを記入して返送しないといけないとか…。おかしいですよね。

それ以外にも

 

今退会すると~が出来なくなってしまいます!本当に退会しますか

退会するのをやめる】

それでも退会する

 

だなんて、引き留めるための無駄なステップを何ページにもわたり用意していたりするサイトもある。恥を知らないというか品がないというか。退会処理に手間をかけさせたり退会方法をわかりにくくさせることにより退会を防ごうとするなんて、悪質スパムのようで気分が悪い。言葉巧みに部屋に客を招きいれ、出口をふさぎながらセールストークをしてくる悪質な押し売りと同じだ。そんなことはせずに、退会させたくないなら退会したくないと思わせるサービスを提供するべきである。

 

数年前にベルーナ(RyuRyu)で買い物をしたら、頻繁にカタログが送られてくるようになった。女性向けファッション誌のようなそれは、激安というほどではないけれどプチプラと呼べる価格帯の可愛いお洋服が多く載っている。しかし2,3度買い物をしてみたもののどれも届いてみるとガッカリするものばかりだったので(縫製が極端に悪かったり、写真と色味が違ったり、素材があまりに安っぽかったり)、もうここは退会しようと決めた。他の通販会社と比べてもかなり頻繁に届くのでチラシや冊子がたまってしまうのにも困っていたし、IPSAの情報流出(私はクレカ情報の登録はしていなかったので金銭的な被害はなかったが、メールアドレスが流れてしまったようでRaybanのサングラス云々という定番の迷惑メールが毎日くるようになってしまった)以降は個人情報の登録に関して以前より気にするようになっていたので、不要なサービスからはしっかりと退会しておきたかったのだ。

 

Web上で退会処理を行った。ベルーナのサイトのQ&Aから退会手続きのページにとび、自動返信の退会処理完了メールが届いて手続きは終了。これでひたすらカタログを開封してゴミの分別をして捨てるという作業から救われる!と、とても清々しい気分だった。ところが、退会から2か月が過ぎているというのに続々とカタログや会員向けの広告が届いている…。さすがに不審に思い中身をよく確認してみると、なんと「○月○日時点でのお客様の利用可能ポイントは~ポイントです」と、退会日付以降の所有ポイントが印字されていたのだ。たしかに退会手続き完了のメールが来ているしもうログインも出来ない状態になっているのに、どうして会員番号が生かされてるの??ととても混乱し、すぐにお問い合わせ窓口にメールで問い合わせをした。

問い合わせた内容は

「退会処理を完了したはずが、カタログを送られ続けて困っている。同封されていた注文用紙を確認したら退会日付以降も会員番号が生きているようだ。ネット上の手続きだけでは退会は完了していないのか。個人情報が心配である。」

 という旨。

すると翌日には返信が来た。回答を要約すると

「たしかに退会手続きは完了しているが"ベルーナネット会員"を退会したのみで、電話・FAX・ハガキでの注文は可能な状態にある(=会員番号やポイントはこれまで通り生きている)し、カタログも今まで通り発送され続けるようになっていた。今回カタログ不要とのことなのでカタログ発送を止める手続きはしたが、個人情報に関しては電話にて問い合わせてくれ。」

という返答が。私の質問に対してきちんと丁寧に明確に答えてくれて、問い合わせに対する対応としては不快な点はなかった。しかし内容には唖然とした。web上で退会手続きをすることには何の意味もなかったのだ。それだけではカタログも広告も届くし会員番号も生き続ける。ただネットの会員ページにはログインできなくなり、メルマガなどをとっていた場合はそれが届かなくなる。ただそれだけなのだ。私のように退会したつもりで実は退会できておらずに個人情報を預けっぱなしの人がどれだけいることか…!ベルーナに限らず、web上で会員登録をしweb上で退会処理を行うことは多くある。自分が退会済みだと思っていたものが実は「退会したのは"ネット会員"のみで、登録自体はされたまま」ということが他にもあるのではないか…と怖くなった。あるのではないか、というかおそらくあるのだ。今回はカタログが頻繁に届いたから気づいたというだけだ。

 

「サービスが不要になったらこの手順で退会できます」と、退会の案内が登録案内と同じくらいしっかりわかりやすく提示されていたほうが、企業としての誠実さを感じるし安心して登録ができるのではないかと私は思う。登録は誰にでもわかりやすく簡単にできても、退会方法は検索をかけて探したり個々に問い合わせが必要になってしまうようでは、「自分で登録できる人」が「自分で退会できる人」とは限らなくなってきてしまう。スキー初心者をリフトで上級者コースまで連れて行き、「自力で勝手に滑ってきてね~」と言って頂上に放置するようなものだ。

老若男女だれでもインターネットを気軽につかう時代になった今こそ、サービスを提供する側は情報弱者の足元を見るようなやり方で儲けるのではなく「誰にでもわかりやすく」して信頼を築くべきだ。会員登録を簡単にするのであれば、退会方法も同様に簡単にすべきだと私は思う。

 

ちなみにベルーナの個人情報について対応してくださる窓口は平日の昼間しかあいておらず、私は仕事やら何からでなかなか電話をかけられずにいるので、カタログ発送は停止されたものの私はいまだに会員なのだと思う…一定期間利用しなければ抹消されるとかあるんですかね…あるといいな… 。他にも退会希望の問い合わせをしたら「システム切り替えの都合上、退会処理ができません。カード情報の削除はサイト上にてできますので…」と退会できなかったサイトもありました。通販が捗る今日この頃ですが、会員登録する際は退会方法も確認する癖をつけることですね。

私は、ここよ。

吉祥寺シアターにてAllen suwaru『空行』を観た。

 

以下、公式サイトによるあらすじ

 

その街は炭鉱であった。

 大きな何かは判らない荘厳な塔のような機械のような古びた建物。

 石灰の匂いと白い埃、希望を求めて人々はほこりを巻きちらし穴を掘り続けた。

その営みの中、少女が産まれた。

 貧しい家族にとってそれは望まれていない生命であった。

ある日、炭鉱と置屋のオーナーであるモトヤマが連れてきたのは、10歳のその少女だった。

 

 「イチカです。何も知りません。色々教えてください。」

 

 少女は教えられた通りに言葉を発した。

 炭鉱夫たちは金を払い少女で自身を慰める。

 少女はモトヤマの息子のヒロトと出会う。

 彼の読む物語を通して、イチカは世界を知って行く。

 彼女の持つ信念を通して、ヒロトは自分を知って行く。

 運命を受け入れる少女と、運命を壊したい少年の心は、どこに答えを見つけるのだろうか...

 

大人って寂しいのよ。だから近くの誰かを求めるの。

でも子供はそんなこと必要ないの。だって一人じゃないってことを知っているから」

 

 

"大人が寂しい"のは、愛を愛だと知ってしまうからなのかな。お金のことばかりのモトヤマが、出て行った妻のことを「金で買うもんじゃねえ」と言った。ミナコだって親の言うことを押し切って愛する人(炭鉱夫)のもとに嫁いできた。あの場所に響いた、ミナコの「自分を」という言葉。愛に触れたことがあるからこそ、寂しかったり強がったり諦めたりしているように見えた。大人は愛を知って、逞しくもなるし弱くもなるのかもしれない。

愛は、好きを包む感じ。伝えるのではなくて、与える。赦す。「あなたを赦します」と言ったイチカは聖母みたいな清らかさで、愛にあふれていた。答えがわかった彼女は「出たい」と思ったのでしょう。

 

來河さんが現実的な話にしたいと思っていたのに対し、脚本家の鈴木さんは希望のある話にしたいと言っていた為、あのような終わりになったということをアフタートークで聞いた。藤田さんはラストを「かけおち」という言葉を使っていたっけ。ドアの外へと踏み出す二人は、確かに希望に向かっているように見えた。けれど何も持たない二人、もう長くないであろうイチカ。「2人で忌まわしい環境から脱出!家族を作って幸せに暮らしました!」というようなことにはきっとなれないし、状況的にはハッピーエンドではないだろう。だけど2人の心情はきっとハッピーエンド。こういうのをメリーバッドエンドというのかもしれない。

水の中で始まるあの会話は、愛を愛だと自覚したあの日の2人の会話が、記憶が、希望が、叫びが、深い海の底に沈んでいったように思えて。お芝居が終わり、客電がつき、波の音とカモメ以外に何の気配もなくて。もうあの2人がこの世界にいないように感じたのだった。