私は、ここよ。

吉祥寺シアターにてAllen suwaru『空行』を観た。

 

以下、公式サイトによるあらすじ

 

その街は炭鉱であった。

 大きな何かは判らない荘厳な塔のような機械のような古びた建物。

 石灰の匂いと白い埃、希望を求めて人々はほこりを巻きちらし穴を掘り続けた。

その営みの中、少女が産まれた。

 貧しい家族にとってそれは望まれていない生命であった。

ある日、炭鉱と置屋のオーナーであるモトヤマが連れてきたのは、10歳のその少女だった。

 

 「イチカです。何も知りません。色々教えてください。」

 

 少女は教えられた通りに言葉を発した。

 炭鉱夫たちは金を払い少女で自身を慰める。

 少女はモトヤマの息子のヒロトと出会う。

 彼の読む物語を通して、イチカは世界を知って行く。

 彼女の持つ信念を通して、ヒロトは自分を知って行く。

 運命を受け入れる少女と、運命を壊したい少年の心は、どこに答えを見つけるのだろうか...

 

大人って寂しいのよ。だから近くの誰かを求めるの。

でも子供はそんなこと必要ないの。だって一人じゃないってことを知っているから」

 

 

"大人が寂しい"のは、愛を愛だと知ってしまうからなのかな。お金のことばかりのモトヤマが、出て行った妻のことを「金で買うもんじゃねえ」と言った。ミナコだって親の言うことを押し切って愛する人(炭鉱夫)のもとに嫁いできた。あの場所に響いた、ミナコの「自分を」という言葉。愛に触れたことがあるからこそ、寂しかったり強がったり諦めたりしているように見えた。大人は愛を知って、逞しくもなるし弱くもなるのかもしれない。

愛は、好きを包む感じ。伝えるのではなくて、与える。赦す。「あなたを赦します」と言ったイチカは聖母みたいな清らかさで、愛にあふれていた。答えがわかった彼女は「出たい」と思ったのでしょう。

 

來河さんが現実的な話にしたいと思っていたのに対し、脚本家の鈴木さんは希望のある話にしたいと言っていた為、あのような終わりになったということをアフタートークで聞いた。藤田さんはラストを「かけおち」という言葉を使っていたっけ。ドアの外へと踏み出す二人は、確かに希望に向かっているように見えた。けれど何も持たない二人、もう長くないであろうイチカ。「2人で忌まわしい環境から脱出!家族を作って幸せに暮らしました!」というようなことにはきっとなれないし、状況的にはハッピーエンドではないだろう。だけど2人の心情はきっとハッピーエンド。こういうのをメリーバッドエンドというのかもしれない。

水の中で始まるあの会話は、愛を愛だと自覚したあの日の2人の会話が、記憶が、希望が、叫びが、深い海の底に沈んでいったように思えて。お芝居が終わり、客電がつき、波の音とカモメ以外に何の気配もなくて。もうあの2人がこの世界にいないように感じたのだった。

近頃のインターネット広告よ。

私は芸能人や人気インスタグラマー・ブロガー・youtuberなど、いわゆる"インフルエンサー"と言われる人達が発信するファッションや美容系の情報を見るのが好きだ。しかし最近、それらについて思うことがある。

彼女たちが「ここ行ってきたよ♪」「~get!」「~プレゼントしていただきました」と、同時期に同じコスメや同じ美容クリニックやサロンやファッション小物を紹介しているのをよく見かける。あれらは見ての通り、企業からインフルエンサーに無料で提供されているものを紹介している広告活動。彼女たちはお仕事として商品やサービスを紹介している。(※ギャラがある場合や、無料で提供する代わりに紹介してもらうお約束だったり、またはあくまでただの「プレゼント(SNSで紹介してほしいな…チラッ)」ということだったり、色々なケースがあるとは思うけど…どの場合も基本的には"お仕事"というスタンスだと捉えていいと思う。)

私はそれが、そのインフルエンサーが発信するコンテンツの魅力を低下させると共に、その宣伝された物や会社の価値も落としていると思う。

 

なぜ上記のような広告活動がコンテンツの魅力を低下させるかというと、企業タイアップのレビューが増えると、コンテンツ内でのプライベート感が減り、発言の信憑性も下がるのだ。

そもそも、なぜインフルエンサーインフルエンサーになるのかというと、「この人の愛用品や行きつけのお店が知りたい」「この人が選ぶコスメがすき」「この人のファッションを参考にしたい」などと多くの人に思われるからだ。そしてそれは、彼女ら個人のセンスにより商品やお店の情報が発信されていることが前提である。芸能人のSNSも同様で、「番組や雑誌で見せる顔よりもプライベート感がある」情報、つまり同じく個人的な発信であることが魅力なのだ。受け手は、彼女らが自ら選び購入している商品やサービスやそれに対する率直なレビューに興味を持っている。それが企業タイアップが増えることによって、企業に依頼された(=彼女たちのセンスで選んだものではない)物の紹介が増えると、そのコンテンツの魅力は半減である。

また、タイアップ投稿の場合、それらが用意された宣伝文句を言わされているにしろ、自分の言葉でレビューするにしろ、お仕事なので実際の使用感はどうあれ一応褒める。正直なところ「これ使えないわ」と思っていても一応褒めるのだ。まあその辺は「これはタイアップ投稿だからな」ということを念頭に置いてみるからいいとして、そうすると、タイアップではない個人的な愛用品紹介をしても「これもPRだったりするのかな」という気がしてきて、その人の発言全体の信憑性が低下してくる。

 こうして、本来のコンテンツの魅力はどんどん失われてしまう。

 

そして、この広告の方法がコンテンツの魅力だけでなく商品やブランド自体の価値を落とすと私が思う理由は、受け手はその企業や商品に対して「有名人に無料でバラまいている」「ステマをしている」「有名人を特別待遇している」というような印象を抱くようになるから。

特に高価な商品やサービスは「高いから効きそう」「普段は手が出せない憧れのブランド」など、商品そのものの効果の他に様々なプラシーボ効果が重なってやっと価格相応の効果を感じられるものだったりする。それが芸能人やインフルエンサーに無料でバラまかれ、あちこちで「いただきました♪」なんて言って商品を紹介され、企業が彼女らをあれこれ接待している様子が目に入ってくると、「またこの人たちにバラまいて宣伝させてるのか…」という気持ちになり、ブランドとしての品格などが損なわれ、プラシーボ効果が半減してしまう。SKⅡとかそれが顕著だけど(笑)特に、その待遇を受けているのがブランドイメージに合うような特定の有名人数名だけ等ならともかく、youtuberやインスタグラマーなどの受け手側からすると"一般人"やそれに等しいと認識されているインフルエンサー(実質、一般人とも言えなくなってきたのが現状だけど…)にまであちこちバラまいていると、尚更付加価値が半減されてしまう。

また、このような宣伝の仕方は、所謂"CM出演"のようなことと違い、インフルエンサー本人がプライベートですすめているような印象を与えられることで宣伝の効果をより得ていると思う。このようなやり方は一昔前はそれこそ詐欺のごとく「これ愛用してます♪」みたいな書き方をしてプライベートで購入したことを装って宣伝していた所謂"ステマ"が始まりでしょうし。ペニオク問題以降は一応「PR記事」とわかるようになんらかの記載をするのが主流になり"ステマ"という枠からは逃れているけれど、一般層からみた印象としてはこれらはステマと同じだし、情弱なら「PR投稿」「提供」などの持つ意味合いがわからず「愛用してるんだ!」と真に受けてしまう人もいると思う。こういうやり方って、情報弱者の足元を見ていると思う。私個人としては、このようなやり方は例え実際に良い商品だったとしても「ここの商品あちこちでステマしてるし、どうなの?」と、あまり好ましくない印象を持つし、商品や企業の信頼感も薄れてしまうのだ。

 それに、芸能人が「美容クリニック行ってきたよ♪」「脱毛サロン行ったよ!」と紹介しているところだって、実際は料金もそこそこするし予約もなかなかとりにくい。芸能人のように「仕事の合間に気軽に♪」なんて到底無理で、予約をとろうとしてもびっくりするくらい先まで予約が埋まっていたりする。芸能人やインフルエンサー達が特別待遇で予約がとられて無料でサービスを提供されているであろうことを考えると、必死に予約を取って高額を支払うのが馬鹿らしくなる。「有名人多数ご来店・ご愛用」なんてうたわれても「そりゃあ、バラまいてるんだからそうでしょうね。」「こっちは高いお金払って大行列に並ぶんですけど…この芸能人たち絶対並んでないよね…?なんで気軽にオススメとか言ってるの…?」と思えてくる。こうなると、一般客を大切にするよりも有名人に媚びることに力を入れている、一般客(特に情弱)の足元を見る企業という印象を抱いてしまう。

 

インフルエンサーに「お金儲けをするな」と言いたいわけではない。多くの人に有益な情報を発信しているのであれば収入があるのも妥当だと思う。だから推奨する商品をアフィリエイトのリンクを貼るのは大いに結構だし、記事や動画内に広告(と明確にわかるもの)が挟まれることにも異論はない。

また、企業側に、彼女らを使っての広告活動をするなと言いたいわけでもない。この時代にインフルエンサーSNSで人気の芸能人を使うのは時代に合ったやり方だと言える。CMに何人もの有名人を出演させるよりも、低コストで効果的な賢い方法なのかもしれない。しかし、これにはいくつかの改善が必要だと思う。例えば「バラまいている」という印象を避けるために少数先鋭にしぼること。価格帯が高いハイブランドや高級コスメなどは特にそれを考えてから人をよく選んで配った方がいい。また、それが企業発信の広告であり彼女らが自ら発信するコンテンツとは違うということを、情弱でもわかるようにもっと明確に示すことも、企業の誠実さを示すという点で重要だと思う。せっかくのブランド価値が「ステマしてる」という印象によって下がらないように。

テレビやラジオで流れるCMだって、番組とCMははっきりと分かれている。ネット上のホームページにある広告だって、広告は広告だとわかるように表示されるのが通常だ。しかし芸能人やインフルエンサーを使ったステマまがいの広告は、例えるならばスマホ用のサイトでスワイプと同時に動いて誤タップさせるような不快な広告や、「>>次のページを見る<<」などとコンテンツ内の一部を装ってリンクをタップさせるようなスパム広告と同じような印象を受ける。ネット上でのあらゆる広告活動はこれからも少しずつ形を変えていくのだろうけど、今あふれている、企業と発信者たちが双方の価値を落としていくこのスタイルが早く廃れていくことを願う。

歳を重ねるって、楽しい。

私は現在27歳、歳を重ねることが楽しいと感じている。

社会に出て数年、それなりに貯金も貯まって色々なことに時間やお金を使えるようになった。お肌の曲がり角だの基礎代謝の低下だのっていう問題もあるけれど(笑)その分美容に使えるお金も増えたから今のほうが髪も肌も手入れが行き届いていると思うし、脱毛もほぼ完了、歯並びは直している途中だけどだいぶ良くなってきたし、代謝が悪くなってきたことは感じつつもまあ体型も悪くない。お仕事も楽しいし、行きつけの居酒屋やお寿司屋さんもできたし、友達もいるし恋人もいる。色んな趣味をかじってみたりして、毎日がとっても楽しい。「大人になるって素晴らしいし、27歳って楽しい!」と心から思っている。

 

確かに若いということは、とっても素敵だった。若いから似合う可愛いお洋服がたくさんあるし、「女子高生限定」「女子大生限定」なんていう楽しいイベントや特典も多い。私も「女子高生」「女子大生」というブランドの恩恵を受けながら10代~20代前半を過ごし、それをとても実感した。「若い女の子」というだけでちやほやされるし、あらゆることが許されるし、多くのチャンスが与えられた。それはもう、「自分は選ばれし特別な魅力のある女の子なのでは!?」と思ってしまっても不思議ないくらいに。若さって、本当にそれだけですごいパワーを持っていた。

 

それでも私は「今が楽しい!」と心から思えている。

その大きな理由の1つは、「若さは素晴らしい」は「若い方がより素晴らしい」ではないと思うから。服であれ趣味であれ、「若い子にしか似合わない」ことがあるように、歳を重ねるごとに「今が一番似合う」というものがあるのだ。10代の頃に似合ってたミニスカートがしっくりこなくなった頃、10代の頃には”着られてる感”が出てしまって上手く着こなせなかった上品な膝丈スカートがしっくりくるようになった。どこのコミュニティ内でも一番年下で「妹みたい」と言われていたのが、年下の子に「年上のお姉さん」という扱いをしてもらえる機会も増えてきたり。私にとってはどれも、1回きりの人生の中で"様々な自分"を楽しめるという嬉しい変化である。大切なのは若さにしがみつくでもなく背伸びして大人ぶるでもなく、だからと言って"歳相応"という言葉にも縛られすぎず、「その時の”自分”に似合うもの」を楽しむこと。そうすれば自分も楽しいし、きっと周りからみても魅力的な人に映ると思う。

そしてこれも大きな理由のうちの1つなのだが、自分に対する他者からの評価や好意を素直に受け入れられるようになったこと。若い時のありとあらゆる素晴らしい待遇は「若いから」であって「私だから」ではないことがほとんどだったと思う。私はそれを当時から強く感じていて卑屈になっていた。どんな待遇も好意も賞賛も素直に喜べず、それはとても孤独な戦いで、そういう意味では若さ(だけじゃないけど、そういう表面上のスペック)が武器であり盾であるのと同時に、コンプレックスだった。「"若い女の子"という枠から出たときに、どう振る舞えばいいの?何が残るの?自分はからっぽな人間なのではないか?」と、ずっと自分を肯定できずにいた。それから少し歳を重ねた今、私は「若さ」というコンプレックスから解放されつつあり(職場の年齢層が高い為、まだ「若い子」として可愛がっていただくことも多々あるけれど…)、以前より卑屈になりにくくなった。なんだか恐れずにありのままで過ごせるようになった気がする。

…そういえば、20代半ばをすぎてもいまだ「妹っぽい」と言われることが多いことに関しては、いつかそのポジションを失った時、私はどうなるんだろう?突然立ち位置や振る舞いを切り替えられるのだろうか…と悩んでいたけれど、友人から「妹みたいに可愛い子は、歳を重ねても”かわいいお姉さん”、"可愛いおばちゃん"になっていくだけだから、そのままで行けばいいんだよ」って言ってもらえたことも、歳を重ねることにポジティブになれたきっかけだったかも。

 

20代後半になってくると、年齢に関していじられることもある。20代である現時点で言われるそれらはまだ冗談交じりな笑い話のつもりかもしれないけれど、「若い方が素晴らしい」という前提のもと、何かしらで「もうババアなんだから」「若い子を僻んでいる」「(未婚なので)売れ残り」と、一方的に蔑まれたり嫌な捉え方をされるのは不本意だし嫌になる。そういうのって、どんなリアクションをしたとしても、もう言われた時点でこちらが惨めな人みたいな空気になってしまうから面倒だし不本意だし傷つく。それから「若く見えますね!」という誉め言葉のつもりらしいお世辞も、勝手に年齢をコンプレックス扱いされて実年齢にケチつけられているみたいに感じてしまって、相手なりの気遣いなはずなのに素直に喜べない。勿論、綺麗で居られる努力はしていきたいけれど、それは「若く見せるため」じゃなくて「その年齢を楽しむため」の努力なのだもの…。だけど、そんな些細なことで傷ついてしまうのはまだまだ自信がたりないのだろうな。そんなことにはノーダメージで心からの微笑みを返せちゃうくらい、自信がある素敵な大人になっていきたい。だって、年齢という記号だけであれこれ決めつけてくるような相手と同じ土俵に立っていちいち真に受けて傷つくなんて馬鹿らしい。

「27歳なんてババアじゃん」と思っている人にも「27歳なんてまだ未熟」と思っている人にも、「えっ!27歳ってこんなに最高なの!?」と思われるような、最強で最高な27歳になりたい。これは27歳に限らず、これから先もずっと「今の自分が最高!」と思えるように生きたいし、できれば周りからもそう思われるような、そんな歳の重ね方をしたい。

 

今のところ、27歳の自分最高!