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菅本裕子という女。

私はぶりっこが大好きだ。だって可愛いから。

ぶりっこといえばタレントだとさとう珠緒小林麻耶田中みな実など「同性から嫌われる女性の代表格」みたいなところがあるけれど、実際は私のように「ぶりっこ可愛い!」と思っている女性は多いと思う(特に女子校育ちのそこのあなた、そうでしょう?)。女性が選ぶ嫌いな女ランキングにぶりっこ系の芸能人が軒並みならんでいるのは信じられない気持ち。「可愛い女は同性に嫌われるんだよな!」っていう男性の中での勝手な"女同士って陰湿でコエー!"みたいなイメージで面白おかしいランキングになるよう情報操作されているだけじゃないのか?と疑ってしまう。

 

しかし、ついに現れたのだ。男性よりもむしろ女性から支持されている自称ぶりっこでモテクリエイター(?)の、「ゆうこす」こと菅本裕子

個人的に、彼女からは「モテたくてバンド始めました!」とか言って実際は客が全員暑苦しい童貞男子しかいない汗臭いパンクロックバンドマンみたいな精神を感じる。そんなロックな内面と可愛らしいビジュアルと色々あった過去とがかけあわさった結果、アイドルでもないし(いや、アイドルだったんだけど)少女マンガのヒロインでもない、恋愛ドラマのヒロインでもない…例えるなら、『グミ・チョコレート・パイン(グミ編) (角川文庫) [ 大槻ケンヂ ]』のヒロイン・山口美甘子のような、そんな女の子となった!という感じ。わかるかな、これ。私にとっての彼女の魅力は本当にこれ。(ちなみにこの本とても暑苦しくて胸がぎゅっとなって…オススメ。)

 

…しかし、そう思っているのは"こっち側"の人間である少数派なのかもしれなくて、一般的に例えばインスタ層とか美容系youtube視聴者とかかわいらしい女性たちの中ではどこが支持されているのか?と私なりに考えた要素は以下の通り。

まず、彼女には「人を蹴落として自分を可愛くみせる」というような陰湿さや、自分を取り繕って無理してぶりぶりしている感がない。その自然体っぽさがポイントだと思う。彼女はファンの女の子達に「一緒に可愛くなろう」と可愛い自分を作るための手のうちを明かすし、可愛くキメ顔したあとに「はい、ナルシスト~」と自分で突っ込みを入れていたり、化粧の工程で何かを塗る時の変な顔も敢えて写したり、コスメレビューは的確でわかりやすく、メイク道具が少し汚れていても「男子!女の子ってこんなもんだから!」とそのまま見せる。ぶりっこ芸を挟みつつも、飾らない自分を上手く出していくことで、女の子から「敵」と認識されずに親しみを持たせることができるのだ。高須先生がこの記事(石原さとみvs綾瀬はるかの美的対決に高須院長「表情美人とズバリ整形してない美人」 | 週刊女性PRIME [シュージョプライム] | YOUのココロ刺激する)で綾瀬はるかさんのことを「女性は“敵か敵じゃないか”も判断の大きな理由だから、安心して心から褒められるタイプの美人でしょう」と言っていたけれど、彼女はこれだと思う。

そして、いつも「みんなのおかげ」という姿勢を崩さずにいて感謝の言葉を欠かさないこと、各方面で話題になりつつある今もファンとの交流を大切にしていて「遠い存在」と感じさせない気さくさも、ファンの心をさらに掴むのだろう。

 

こうして書き出してみて気付いたけど、結局一貫して「飾らない」「気さく」が重要なところで、ぶりっこ要素が支持されているわけではない…むしろ「ぶりっこを軽減することにより好かれている」と言えるに等しいのでは…。というか、ゆうこすは全然ぶりっこではない。結局ゆうこすは「女性ウケがいいぶりっこ」ではなくて「ぶりっこじゃないから女性ウケがいい」のだ。考えてみれば服装だって、ゆうこすがよく着用しているHONEY MI HONEYとかsnidelって男性からみると「??」となる一癖あるデザインが多い所謂"女性から見たカワイイ"の代表格だと思うし。そもそも「男の子が大好き」「モテるために生きている」と言っているしそれも本心だとは思うけれど、彼女のその原動力の根本は男性の目を気にすることよりも「なりたい自分になること」「自分が自分を好きになること」(そしてその結果がモテること)という感じがする。それってモテとかぶりっことか性別とか関係なく多くの人にとって重要なことであり、結局そこなんだな、魅力。

 

ということで、ぶりっこゆうこすの魅力を語るはずがゆうこすはぶりっこというよりロックな人だという流れになってしまった()ので、「好かれるぶりっこ」や「嫌われるぶりっこ」など王道ぶりっこについての記事はまたの機会に。

 

 

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近頃のインターネット広告よ。

芸能人や人気インスタグラマー、ブロガー、youtuberなど、いわゆる"インフルエンサー"と言われる人達が発信する、ファッションや美容系の情報を見るのが好きだ。しかし最近、それらについて思うことがある。

彼女たちが「ここ行ってきたよ♪」「~get!」「~プレゼントしていただきました」と、同時期に同じコスメや同じ美容クリニックやサロンを紹介しているのをよく見かける。あれらは見ての通り、企業からインフルエンサーに無料で提供されているものを紹介している広告活動。彼女たちはお仕事として商品やサービスを紹介している。(※ギャラがある場合や、無料で提供する代わりに紹介してもらうお約束だったり、またはあくまでただの「プレゼント(SNSで紹介してほしいな…チラッ)」ということだったり、色々なケースがあるとは思うけど…どの場合も基本的には"お仕事"というスタンスだと捉えていいと思う。)

私はそれが、そのインフルエンサーが発信するコンテンツの魅力を低下させると共に、その宣伝された物や会社の価値も落としていると思う。

 

なぜ上記のような広告活動がコンテンツの魅力を低下させるかというと、企業タイアップのレビューが増えると、コンテンツ内でのプライベート感が減り、発言の信憑性も下がるのだ。

そもそも、なぜインフルエンサーインフルエンサーになるのかというと、「この人の愛用品や行きつけのお店が知りたい」「この人が選ぶコスメがすき」「この人のファッションを参考にしたい」などと多くの人に思われるからだ。そしてそれは、彼女ら個人のセンスにより商品やお店の情報が発信されていることが前提である。芸能人のSNSも同様で、「番組や雑誌で見せる顔よりもプライベート感がある」情報、つまり同じく個人的な発信であることが魅力なのだ。受け手は、彼女らが自ら選び購入している商品やサービスやそれに対する率直なレビューに興味を持っている。それが企業タイアップが増えることによって、企業に依頼された(=彼女たちのセンスで選んだものではない)物の紹介が増えると、そのコンテンツの魅力は半減である。

また、タイアップ投稿の場合、それらが用意された宣伝文句を言わされているにしろ、自分の言葉でレビューするにしろ、お仕事なので実際の使用感はどうあれ一応褒める。正直なところ「これ使えないわ」と思っていても一応褒めるのだ。まあその辺は「これはタイアップ投稿だからな」ということを念頭に置いてみるからいいとして、そうすると、タイアップではない個人的な愛用品紹介をしても「これもPRだったりするのかな」という気がしてきて、その人の発言全体の信憑性が低下してくる。

こうして、本来のコンテンツの魅力はどんどん失われてしまう。

 

そして、この広告の方法がコンテンツの魅力だけでなく商品や企業自体の価値を落とすと私が思う理由は、受け手はその企業や商品に対して「有名人に無料でバラまいている」「ステマをしている」「有名人を特別待遇している」というような印象を抱くようになるから。

特に高価な商品やサービスは「高いから効きそう」「普段は手が出せない憧れのブランド」など、商品そのものの効果の他に様々なプラシーボ効果が重なってやっと価格相応の効果を感じられるものだったりする。それが芸能人やインフルエンサーに無料でバラまかれ、あっちでもこっちでも「いただきました♪」なんて言って商品を紹介され、企業が彼女らをあれこれ接待している様子が目に入ってくると、「またこの人たちにバラまいて宣伝させてるのか…」という気持ちになり、ブランドとしての品格などが損なわれ、プラシーボ効果が半減してしまう。特に、その待遇を受けているのがブランドイメージに合うような特定の有名人数名だけ等ならともかく、youtuberやインスタグラマーなどの受け手側からすると"一般人"という認識されているインフルエンサー(実質、一般人とも言えなくなってきたのが現状だけど…)にまであちこちバラまいていると、尚更付加価値が半減されてしまう。

また、このような宣伝の仕方は、"広告"としてではなくてあくまで"コラボレーション"等とすることで広告との線引きを曖昧にし、インフルエンサー本人がすすめているような印象を与えられることで宣伝の効果をより得ていると思う。これに関しては一昔前はそれこそ詐欺のごとく「これ愛用してます♪」みたいな書き方をしてプライベートで購入したことを装って宣伝しているステマが多かったけど(やたら説明くさかったり、URLの貼り方とかでわかる人にはそれがプライベートではないことがわかったと思う)、ペニオク騒動以降はやり方に気を付けているように感じる。例えば「~社さんからプレゼントでいただきました」などと"自分で買ったわけではない"という旨を明言させていたり、入手した経緯は明記していなくても「#PR」というタグをつけてレビュー記事を投稿していたり、アメーバを通した広告記事だと「公認」バナーがついたりと、商品のPR投稿だということがわかるようになっている場合も多い。ペニオクにようなことにならないように、注意しているのだろう。こうして厳密に言えばステマという枠からは逃れているであろうが、一般層からみた印象としてはこれらはステマと同じだし、情弱なら「愛用してるんだ!」と真に受けてしまう人もいると思う。こういうやり方って、足元を見られていると感じてしまう。例え実際に良い商品だったとしても「ここの商品あちこちでステマしてるし、どうなの?」と、あまり好ましくない印象になり、商品や企業の信頼感も薄れてしまうのだ。

それに、芸能人が「美容クリニック行ってきたよ♪」「脱毛サロン行ったよ!」と紹介しているところだって、実際は料金もそこそこするし予約もなかなかとりにくい。芸能人のように「仕事の合間に気軽に♪」なんて到底無理で、予約をとろうとしてもびっくりするくらい先まで予約が埋まっていて、予約が難しかったりするのだ。芸能人やインフルエンサー達が特別待遇で予約がとられて無料でサービスを提供されているであろうことを考えると、必死に予約を取って高額を支払うのが馬鹿らしくなる。「有名人多数ご来店・ご愛用」なんてうたわれても「そりゃあ、バラまいてるんだからそうでしょうね。」「こっちは高いお金払って大行列に並ぶんですけどね…。」と思えてくる。こうなると、一般客を大切にするよりも有名人に媚びることに力を入れている、一般客(特に情弱)の足元を見る企業という印象を抱いてしまう。

 

インフルエンサーに「お金儲けをするな」と言いたいわけではない。多くの人に有益な情報を発信しているのであれば収入があるのも妥当だと思う。だから推奨する商品をアフィリエイトのリンクを貼るのは大いに結構だし、記事や動画内に広告(と明確にわかるもの)が挟まれることにも異論はない。

また、企業側に、彼女らを使っての広告活動をするなと言いたいわけでもない。この時代にインフルエンサーSNSで人気の芸能人を使うのは時代に合ったやり方だと言える。CMに何人もの有名人を出演させるよりも、低コストで効果的な賢い方法なのかもしれない。しかし、これにはいくつかの改善が必要だと思う。例えば「バラまいている」という印象を避けるために少数先鋭にしぼることだったり、それが企業発信の広告であり彼女らが自ら発信するコンテンツとは違うということを、情弱でもわかるようにもっと明確に示すことだったり。

テレビやラジオで流れるCMだって、番組とCMははっきりと分かれている。ネット上のホームページにある広告だって、広告は広告だとわかるように表示されるのが通常だ。しかし芸能人やインフルエンサーを使ったステマまがいの広告は、例えるならばスマホ用のサイトでスワイプと同時に動いて誤タップさせるような不快な広告や、「>>次のページを見る<<」などとコンテンツ内の一部を装ってリンクをタップさせるようなスパム広告と同じような印象を受ける。ネット上でのあらゆる広告活動はこれからも少しずつ形を変えていくのだろうけど、今あふれている、企業と発信者たちが双方の価値を落としていくこのスタイルが早く廃れていくといいな…。

 

歳を重ねるって、楽しい。

私は現在27歳、歳を重ねることが楽しいと感じている。

社会に出て数年、それなりに貯金も貯まって色々なことに時間やお金を使えるようになった。お肌の曲がり角だの基礎代謝の低下だのっていう問題もあるけれど(笑)その分美容に使えるお金も増えたから今のほうが髪も肌も手入れが行き届いていると思うし、脱毛もほぼ完了、歯並びは直している途中だけどだいぶ良くなってきたし、体型も悪くない。お仕事も楽しいし、行きつけの居酒屋やお寿司屋さんもできたし、友達もいるし恋人もいる。色んな趣味をかじってみたりして、毎日がとっても楽しい。「大人になるって素晴らしいし、27歳って楽しい!」と心から思っている。

 

確かに若いということは、とっても素敵。若いから似合う可愛いお洋服がたくさんあるし、「女子高生限定」「女子大生限定」なんていう楽しいイベントや特典も多い。私も「女子高生」「女子大生」というブランドの恩恵を受けながら10代~20代前半を過ごし、それをとても実感した。「若い」というだけでちやほやされるし、あらゆることが許されるし、多くのチャンスが与えられた。それはもう、「自分は選ばれし特別な魅力のある女の子なのでは!?」と思ってしまっても不思議ないくらいに。若さって、本当にそれだけですごいパワーを持っていた。

 

それでも私は「今が楽しい!」と心から思えている。

その大きな理由の1つは、「若さって素晴らしい」は「若い方が素晴らしい」ではないと思うから。服であれ趣味であれ、「若い子にしか似合わない」ことがあるように、歳を重ねるごとに「今が一番似合う」というものがあるのだ。10代の頃に似合ってたミニスカートが似合わなくなってしまった頃、10代の頃にはあまり似合わなかった上品な膝丈スカートがしっくりくるようになる。どこのコミュニティ内でも一番年下で「妹みたい」と言われていたのが、年下の子に「年上のお姉さん」という扱いをしてもらえる機会も増えてきたり。私にとってはどれも、1回きりの人生の中で"様々な自分"を楽しめるという嬉しい変化である。大切なのは若さにしがみつくでもなく背伸びして大人ぶるでもなく、だからと言って"歳相応"なんていうことにも縛られすぎず、「その時自分に似合うもの」を楽しむこと。そうすれば自分も楽しいし、きっと周りからみても魅力的な人に映ると思う。

そしてこれも「今が楽しい」と思える大きな理由のうちの1つ、他者から自分に対しての評価や好意を素直に受け入れられるようになって自己肯定感が増したということ。若い時のありとあらゆる素晴らしい待遇は「若いから」であって「私だから」ではないことがほとんどだったと思う。私はそれを強く感じ、卑屈になっていた。どんな待遇も好意も賞賛も素直に喜べず、それはとても孤独な戦いで、そういう意味では若さ(だけじゃないけど、そういう表面上のスペック)が武器であり盾であるのと同時に、コンプレックスだった。「"若い女の子"という枠から出たときに、どう振る舞えばいいの?何が残るの?自分はからっぽな人間なのではないか?」と、ずっと自分を肯定できずにいた。それから少し歳を重ねた今、私は「若さ」というコンプレックスから解放されつつあり(職場の年齢層が高い為、まだ「若い子」として可愛がっていただくことも多々あるけれど…)、以前より卑屈になりにくくなった。なんだか恐れずにありのままで過ごせるようになった気がする。

…そういえば、20代半ばをすぎてもいまだ「妹っぽい」と言われることが多いことに関しては、いつかそのポジションを失った時、私はどうなるんだろう?突然立ち位置や振る舞いを切り替えられるのだろうか…と悩んでいたけれど、友人から「妹みたいに可愛い子は、歳を重ねても”かわいいお姉さん”、"可愛いおばちゃん"になっていくだけだから、そのままで行けばいいんだよ」って言ってもらえたことも、歳を重ねることにポジティブになれたきっかけだったかも。

 

20代後半になってくると、年齢に関していじられることもある。20代である現時点で言われるそれらはまだ冗談交じりな笑い話のつもりかもしれないけれど、「若い方が素晴らしい」という前提のもと、何かしらで「もうババアなんだから」「若い子を僻んでいる」「(未婚なので)売れ残り」と、こちらの意図しないところで一方的に蔑まれたり嫌な捉え方をされたりする。そういうのって、どんなリアクションをしたとしても、もう言われた時点でこちらが惨めな人みたいな空気になってしまうから面倒だし不本意だし傷つく。だけど、そんな低レベルなことで傷ついてしまうのはまだまだ修行が足りないのかもしれない。そんなことにはノーダメージで心から微笑みを返せちゃうくらい、自信がある素敵な大人になっていきたい。だって、年齢という記号だけであれこれ決めつけてくるような相手と同じ土俵に立っていちいち真に受けて傷つくなんて馬鹿らしい。

「27歳なんてババアじゃん」と思っている人にも「27歳なんてまだ未熟」と思っている人にも、「えっ!27歳ってこんなに最高なのかよ!?」と思われるような、最強で最高な27歳になりたい。これは27歳に限らず、これから先もずっと「今の自分が最高!」と思えるように生きたいし、できれば周りからもそう思われるような、そんな歳の重ね方をしたい。

 

今のところ、27歳の自分最高!

さよなら、下北沢。

下北沢はそれなりに好きな街だった。"下北沢で遊ぶ"というようなことはなかったが、ライブハウスや小劇場に行くために度々足を運んでいた。小田急線の古びた駅のホームがとても好きだったし、近代的な高いビルがないのも良かった。ぱっとしないバンドマンや劇団員がたくさん居て、夢を追うことを馬鹿にされない街。胸が熱くなるような青春くさい街。

 

先日、合コンのようなものに参加した。

高校の同級生である友人との予定を済ませた後、「このあとちょっと飲みに行こうよ」とあたかも突発的に思いついたかのように誘われ、連れて行かれた先がそれだったのだ。

 

場所は新宿にある、おいしくてお手頃価格だと評判の店の個室だった。

女性陣は全員私の友人が集めたらしく、センターパートのロングヘアーでハーフ顔メイクのお綺麗なお姉さんが達が3人。彼女らは学生時代の先輩であったり飲み友達であったりするらしく、年齢は私より少し上のようだった。

男性陣は一見「何の集まりだろうか?」と思うような、服装の系統も違うし年齢も違いそうな不思議な人たちだった。話を聞いてみるとやはり彼らは実際に職業も年齢もバラバラで、内2人は下北沢在住、他も在住ではないものの下北沢がホームで、彼ら曰く「下北沢にいくとこの中の誰かしらと会う」らしかった。

女性陣とも男性陣ともそれぞれ趣味や好きなアーティストなど何かしら共通の好きな物があったし、ノリの良い人たちだったのでそれなりに場は盛り上がっていたが、私は内心居心地の悪さを感じていた。

音響の良いクラブはどこかという話題の中で「好きな箱はアトム、キャメ、V2」と恥ずかしげもなく女子大生が行くようなナンパ箱を挙げるアラサー女性陣に私はとても引いていたし、何の話をしていてもすぐに内輪ネタに走る男性陣に相槌を打つことにも疲れていたのだ。

 

終電も近くなった頃、店を出て二次会をする流れになった。彼らは「下北沢で飲もう」と言い出した。

二次会で別の街へ移動するなんて面倒だし、女性陣は下北沢に所縁はなく家からも遠ざかる方向である。何の配慮もない男性陣のその内輪ノリな提案に私は心底うんざりした。しかしすっかり酔って楽しそうな友人の顔をみたら「帰る」とも言い出せず、結局全員で下北沢に向かったのだった。

 

タクシーを降り下北沢の商店街を歩くと、そこらは男女問わず彼らの知り合いだらけで、どこでもそこでも「おー!何してるの?」と立ち話が始まる。

男に関しては私たちにはほぼノータッチのまま男同士で手短に挨拶をする人が多かったが、女はそろいもそろって「この女の子達は?()え、なにやってんの?()合コン?()」という"部外者"に対するマウンティングのようなニュアンスも感じる好奇の目線を無理遠慮にこちらに向けてきた。そんな彼女達からは「男ばかりの中でも気にせず馴染める!全然気にしない!服もやる気ないし!」とでも言いたげな自称サバサバ女感と、その「全然気にしない」風の見た目からもぷんぷん匂う"メスの匂い"が感じられて、とても気持ちが悪かった。ぱっとしない人達が醸し出す性の匂いというのは、どうしてこうも生々しく不快なのだろうか。

 

どこの店に行くかとあれこれ言いながら歩いている中、1人が「こいつの家で飲もうよ」と言い出したのがきっかけで、結局下北沢在住の男の家で宅飲みをすることになった。途中、男性陣の知り合いの女の子ら2人が「終電逃した」などと言いながら酒缶を片手うろうろしていて、その子らも合流し大所帯で彼の家に向かった。

家主が部屋をあけて電気をつけると、玄関にいる私たちを眠気眼でボーッと見ている男女2人が家の中にいた。家主は平然と「あ、同居人!あとその彼女」と言い、みんなは一瞬唖然としたあと「それを先に言えよ!」と突っ込んで笑った。その同居人たちも輪に加わりさらに大所帯となった輪は、床に座りきることができず、私を含む数人はベッドの上に腰をかけるしかなかった。先ほどまで恋人同士が寝ていたベッド。ぐしゃぐしゃのシーツの上。(…またこの感じ)と、私は先ほど商店街を歩いていた時に出会った、性の匂いを漂わすガサツそうな女たちの面々を思い出していた。

 

始発の時間になってもみんなはまだ騒いでいたが、私は1人でその家を出た。まぶしい朝日の中、静まり返った下北沢の商店街を通り抜け、いまだに慣れない小田急線の地下ホームへ向かう。ふとスマホをみると昨晩いつのまにか誰かがつくったグループラインには「あーちゃん、もう電車?気が向いたら帰ってきなよ♪まだ飲もうよー」という連絡がきていた。昨晩のお礼と帰らなくてはいけない旨をあたりさわりなく返信し、電車に揺られながらぼんやりと「ここは私のいられる場所ではなかった」と感じていた。あの場で素直に自分らしく振る舞うことは難しく、仮面をつけているような気分だった。たぶん愉快な夜だったのだと思う。もし自分らしく振る舞っても、誰かが嫌な態度をとるようなことはおそらくなかった。しかし、できなかった。誰のせいでもないけど、だからこそどうしようもなかった。あそこは私が生きられない場所なのだ。

 

下北沢はこれから開発されてどんどん都会的な景観になっていくようだ。私の好きだった景色も既に少しずつ変わってきてしまった。そしてぱっとしない男女が漂わす生々しい性の匂いとつまらない夜に飲み込まれ、私の中で景色以外の何かも変わってしまった。

それなりに好きだった、下北沢。でも"下北沢の人"にはなれない。

あの人たちの「いつものメンバー」にはなれないし、下北沢は「いつもの場所」にはなりえない。こうも悲しくなる程はっきりと「違う」と思うのは久しぶりだった。

 

さよなら、下北沢。