「死にたい」をどこかで吐き出してみること

今更ながら『12人の死にたい子どもたち』を観てきた。(※映画の内容のネタバレあるので嫌な方は読まないでくださいね。) 

予告やポスターなどをチラッと見て、てっきり「自殺願望のある未成年が集団自殺のために集まるも、集合した部屋では既に何者かに殺されたと思しき死体があり、"この中に殺人犯が混ざってる?"”自殺したいけど殺されるのは嫌!”と疑心暗鬼な探り合い潰し合いのバトロワ展開」みたいな物騒な展開を想像していたのですが。ていうかそういうのを想像させるような宣伝の仕方をしていたよね?ところが「どこで血みどろ展開に!?」「くるか?今か!?」「最後くるか!?」と構えているうちに普通に平和に終わってしまって、上映後のシアターの空気も「え…???」「イイハナシダッタネー(棒)」という空気が流れておりました。

鑑賞後にあらためてホームページをみてみたら「厚生労働省の自殺防止ポスターとタイアップ」とか書いてあるのよね。…なるほどね。

 

そんな感じで、予告に釣られてバトロワ展開を想像していた人たちからすると「俺たちはこんなイイハナシを観に来たんじゃねえ…」という感じだし、逆に予告を見て「出演者は好きだけど怖そうだから観れない…」とか思ってた人は観ても平気だったんじゃない?みたいな、なんとも勿体ない予告編詐欺だと思う。インパクトがあればいいってもんじゃない。だけど、まあこういう映画だったんだなってことを受けてあらためてこれはこれで良い作品だったと思ったりもしたので、この作品を通じて考えた「未成年の自殺」についての考えを記そうと思う。

 

まさに今朝にも「小学生が2人で飛び降り自殺」というニュースを見たばかりなのだけれど。未成年の頃ってすごく不安定で、「死にたい」という答えが出てしまいやすいと思う。私も昔はつらいことがあると「自殺したら楽になれるかな?」「死にたいな」「はいはい、私が死ねばいいんでしょ?」だとか本気で思うことが何度もあった。今思えばその思考は軽率だけれど、その時は本当に苦悩を抱えていたし自分なりに本気だった。自らの「死」が何かを伝えるあるいは何かを変えてくれるようなすごく大きな意味を持つ方法のように思えていたのかもしれないし、単なるリセットボタンみたいな感覚だったかもしれない。悲劇的に散ることがドラマチックで美しい結末のように思っていたのかもしれないし…なんにせよ「死にたい」だとか「自殺」だとかいう発想につながるハードルは大人になった今よりも低かったとともに「死」が成す結果を過信していたようにも思う。そしてそれを思うタイミングと勢い次第では、私だって自殺を選んでいたかもしれない。今でさえも「死」は未知のものであってそれがどんなものなのか説明するのは困難だけれど、当時は本当に全く理解していなかったからこそ、そうだったと思う。

 

登場人物の多くは「死」を以ってなにかを成そうとしていた。自分の「死」に対して単に「命が絶える」ということ以外の現象を期待していた。そこから互いに死にたい理由を話し合うことによって「果たしてそれは"死"を以ってなせることなのだろうか?」「生きてこそ成せることなのでは?」ということに気付いたり、自分以外の参加者に対して「助けてあげたい」「生きてほしい」という気持ちを抱くことになる。

伝えたいことは生きて伝えるしかない。解決したいことは生きて解決するしかない。嫌な奴らにとってはこちらの「死」なんて"ちょっとした誤算"程度にしかならない。…彼らが集団自殺を中止したのは、自分が命を捧げても自分たちが思うようなことは成し遂げられないことに気づいたからなのだと思う。命は確かに重い、重く扱われるべきだけれど、軽く扱われてしまうことだって多くあるのが現実だから。

この映画を観た「死にたい」と思ってしまう若い子たちが、「自分が“死”をもって成し遂げようとしてることは本当に"死”をもってなせるのか?」と考え直すきっかけになるならすごく素敵だなぁ。願わくば、映画の人物たちと自分を重ねて見るだけでなくきちんと自分自身の気持ちもどこかに吐露して、少しでも前を向くことができたら。

ただし、こういう話って話す相手を間違えると悪戯に煽られたり自分の苦悩に酔ってしまって負の方向に飲まれるから、やっぱりそういうのは自殺防止ダイヤルとか心の相談室的なところにかけるのすごく有効だと思う。知らない人だからこそ話せる部分ってあるし、そのほうがフラットな状態で何も気にせず出し切れるだろうし、相手は話を聞くことに特化しているしね。

 

でもまあ、実際にこの映画のこういうメッセージ性が響くのは「自分の命には価値がある(と信じたい)からこそ死にたい」とか「自分の死による結果に希望がある」という…自己肯定感がある・あるいは自分の命は重いという認識が根底にあるタイプだけで、いわゆる鬱状態のような…どんなことを考えても結論が「自分には価値がなく、自分さえいなければ良い」に着地しちゃうような心理状態の人(大人の自殺はこちらの割合が多そう)には全く響かない話でしょうね。…そういう人は映画を見てとかそういうことより適切な治療が必要だからね。

 

調べてみたら原作はまた少し設定が違うようなので、原作も読んでみようと思います。

強く可愛く生きたいな

最近、「女が嫌いな女」みたいなのを女が語って盛り上がるバラエティ番組をみた。たしかに共感するネタもあったのだけれど、それ以上にカメラの前で楽しそうに上から目線で同性の悪口をいってる絵面が不快すぎて、その番組を見るのをやめた。ああいうのはお笑いのあるあるネタが程よいもので(横澤夏子のネタとか結構好き)、ああやって普通にあーでもないこうでもないって話し合っちゃうと本当に見苦しいただの悪口なのよね。

 

それを見ていてふと思い出したのだけれど、私も「女が嫌いな女」という感じで「ぶりっこ」だとか言われて同性から嫌悪感や悪意を向けられたことが何度かある。それは決まって"同じ空間には居るけど言葉は挨拶程度しか交わしていない"くらいの距離感の、よく知らない人にそういう態度をとられるのだ。例えば、同じ飲み会にいたけど別テーブルだったから個人的には特に話してない人とか。仲の良い友人達には「知らない人に一方的に嫌われることあるよね()」とネタにされている。実際は女子校育ち・アルバイトも女性ばかりの職場・就職先も女性が多い会社におり、ずっと人間関係は良好なので「女に嫌われる女」という感じでもないと思うけれど。

 

一時期は少し気にして「女に嫌われる女」について検索してみたりしていた。調べてみると"女ウケ(同性ウケ)が悪い女"というのは、「ぶりっこ」「男に媚びてる」「男の前で態度が変わる」「男ウケを意識しすぎ」などという要素が出てきた。逆に女ウケが良い女は「さばさばしている」「自分を貫いている」「男に媚びない」という感じ。服装でいうと、いつの時代も鉄板な「モテ服(女子アナみたいな服?)」は同性ウケが悪くて、流行を取り入れたり個性を出したりするオシャレは同性ウケが良いと。メイクも、ナチュラルな色味や可愛らしいピンクを使ったメイクは「モテメイク」とされ、赤リップや奇抜なカラーメイクなどは「女ウケ」「男に媚びない」とされている様子。まさにぱっくり正反対。え、要するにモテそうな女は嫌われて、男ウケわるそうな女が好かれるってこと???(この世の中には男女ともに好かれる人気者も存在するけども…!)

 

私は所謂モテ服みたいな方向性の甘めなテイストが好きだし、喋り方はさとう珠緒さんに似ていると言われる。(これについては口調じゃなくて声質が似ているのかも。)おそらくそのあたりが「ぶりっこ」とか「男に媚びてる」という風にとられるのだろう。特に、遠目で見ると服装だとか声の響きだけがなんとなく入ってくるから、よく知らない人の目には特にそのように映るのだろう。

だけど私はそう見られることがあるのかもという点については納得した上で、自分を変えようとは思わなかった。むしろ変える必要がないとわかって安心した。

「男ウケ意識しすぎ」だとか「男に媚びてる」だとか、「女が嫌いな女」で挙がる意見の多くは男性の存在が絡んだ見方なのだ。思い返せばそういった嫌悪感や悪意を向けられるのはいつも男女混合の場だった。道理で女性だらけの場では人間関係良好なわけだ。しかし…男ウケ云々ぶりっこ云々言ってる人って、私からしたら「そういう見方をするあなたたちの方が男の目線を意識しすぎじゃね…?」の一言に尽きる。

同性を見る時に「自分/相手」ではなくて「自分/(男性)/相手」という見方をしているわけじゃないですか。常に異性の存在を間にはさんで考えてしまっている。可愛い服を着たり可愛い態度をとることが「男ウケ」「男に媚びてる」としか捉えられない、男ウケ悪そうなファッションや態度をとることでしか「男に媚びない」を表現できないのって…すごく勿体ないし不自由じゃないのですかね。異性の存在に自分の選択や感情を振り回されすぎなのでは?そんな視点であーだこーだ言われましても知らんがな。

 

「自分がどうなりたいか」の中には「どう見られたいか」も含まれたりするので、他者と関わって生活している以上「他人の目を意識していない」とは言えないけど、それを含めて自分のための表現なので、私は自分の為に自分の好きな服をきて好きなメイクをしてなりたい自分に近づけるように振る舞っていると自信をもって言える。だから私は大して知らない人にぶりっこだのなんだの言われてももう気にならない。

 

意地悪な態度をとられてされてくよくよしてた頃、仲良しな先輩に「"可愛い"を貫くあなたはハードボイルドな子だと思ってる」と言ってもらえたことを誇りに思います。強く可愛く生きたいな。

 

「店員さん」を「定員さん」と書く人が気持ち悪い

ネット上での投稿を見ていると「店員」を「定員」と打つ人が結構多くていつも気になってしまう。正しい言葉は知っているけれど敢えて話し言葉として崩すとか読み方が同じものをうっかり誤変換してしまうならばそこまで気にならないけれど、小学生で習う漢字で構成されていてしかも一般的によくつかわれている言葉なのに、ずっと間違いに気づかずに堂々とそれらを連発していることがすごく気持ち悪く感じる。

 

「店員」と「定員」は発音が似ているだけで、意味はまったく違う。この2つの言葉が混同してしまったら、全く意味がわからない(実際は誤字であろうと推測するから意味わかるけど)。漢字を習う前くらいの子供がどちらも「てーいん」という音で覚えて混同してしまうのはよくあることだろうしわかるけど、いい大人が「店員(てんいん)」と「定員(ていいん)」の区別ができないのはどうしてなのだろう。「店」は小2、「員」は小3で習う漢字だし、それなりによく使っている言葉だろうに。普段「定員さん」と書いている人は、「店員さん」という文字は読めないのだろうか。「このエレベーターの定員は○名です」という文をどのように捉えるのだろう。「ふいんき(なぜか変換できない)」状態で「あれ?ていいんって打っても店員って出てこないぞ?」からの誤変換()で「定員」になってしまっているの?

 

文章を読んでいても、「店員・定員」「延々・永遠」…あとは「言う・ゆう」あたりの間違いをして投稿している人みると、内容に問題もなく丁寧な敬語だったとしても「この人マトモじゃない」と思ってしまう。もうこれ、教養とか語彙力とかいう問題じゃなくて、注意力のなさとかそういう点で異次元すぎて、すごく気持ち悪い。誤字が駄目とか言葉を知らないのが駄目なのではなくて、いい大人になっても間違いに気づかずにところ構わず堂々と使いまくってるその感じが気持ち悪いのかな…。傘の柄部分を横に持ってブンブン振って歩く人に遭遇した時と同じくらい「うわっ…」ってなる。

 

しかし匿名の掲示板だとそういう誤字があれば指摘されているのを見かけるけれど、友達とかだと指摘しにくいものですね。嫌な気持ちにさせてしまいそうだし、伝え方が難しい。言葉が間違っていても意味をくみ取って流してあげるのが大人同士の付き合いなのかなって思うけれど、それもある意味冷たいですよね…。なんだろう、鼻毛が出てる時に指摘するのは親切なのか否か問題的な…。まあ(関係良好な)両親や配偶者あたりが気付いたら教えてあげてくれ…という感じなのかな。私も両親や彼からの指摘なら、ひねくれたり恥ずかしがったりせずに「えーー!がーん!そうだったの!?」くらいで直せそう。

 

皮膚科に行く暇がないけどヒルドイドが欲しい人よ

ここしばらく、ニキビ薬(最近デュアックからディフェリンに変えました)の副作用での乾燥とアレルギー症状が重なってしまい、顔や首が部分的にアトピーのような状態になっていました。化粧水も保湿クリームもピリピリする上に全く保湿されず何の意味もなさず。以前にもこんな風になった時に、皮膚科でヒルドイドソフト軟膏を処方されたら本当にすぐに効果が出てすごく安心した覚えがある。けれど平日は仕事があるからなかなか皮膚科に行けない。今週末は運悪く行きつけの皮膚科が休診日…。気休めに市販のものでヘパソフトだとかヘパリン類似物質が入った商品も色々あるけれど、どれを使っても全然効果がなくて焦っていた。

 

そんな時に私を救ってくれたのがこちら。


 

パッケージも可愛いし、お値段もお手頃。皮膚科で診察料だとかそこまでの交通費だとか待ち時間の浪費を考えると、これ全然高くないと思います。で、使い心地や効果は完全にヒルドイドです(私の個人的な感想ですが…)。毎日どんなに頑張って保湿しても即カサカサになって皮が剥けていてアトピー状態だった部分もしっとり保ってくれて、塗って一晩寝ただけで家族から「少し治まってきたね」と言われたほど。

皮膚科に行けなくて困っている人も、美容目的で使いたい人も、これがとってもおすすめです!

 

マツキヨでも同様のものを出しています。

www.matsukiyo.co.jp

パッケージもかなり似せていていかにもヒルドイド類似品って感じですが、こちらもヒルドイドと効果はほとんど変わりません。(これも私の個人的な感想です)

 

皮膚科に行けずにヒルドイドをフリマサイト等で買おうとする方も居るんじゃないかと思うのですが、これは絶対に避けてほしいです。現在、美容目的でヒルドイドを大量に処方しているせいで健康保険財政には大きな影響が出ています。保険を適用するということは、安くした分を私たちが支払っている税金で補填しているのです。つまり、転売している人は税金を個人の儲けにしているのです。悪質ですよね。

私が以前脱毛で通っていたアリシアクリニックの施術室の壁には、当時(数年前ですが)ヒルドイドの美容目的での使用を推奨するポップが貼ってありました。勿論診察が必要ですが、そんなポスターを貼っている時点で診察も形式上ですよね。そりゃ悪質な転売ヤーも増える。そこに不信感を抱いたので、今後もし追加で脱毛をしたくなった際には別のクリニックを選ぼうと思いました。今通っている皮膚科では「ヒルドイドの処方を希望されても、医師が症状をみて必要と判断した場合のみ・必要な分しか処方しない」「処方された本人以外は使わないでください」というポスターが掲示されていて、とても好感が持てます。どうか皆さんも税政を圧迫する悪質な転売ヤーからは買わずに、お近くのドラッグストアに行くなり通販するなりでこれらの市販品を買って欲しいです。

 

 

ロリータ服って可愛いよね

ロリータモデルの青木美沙子さんの記事『私がロリータであることを伏せて「出会い系アプリ」を使った理由』

gendai.ismedia.jp

が少し話題になっていた。

「男ウケのためにロリータやめるなんて無理!自分をつらぬく!結婚して子供を産むことも、好きな事を仕事にしてそれを貫くことも同様に尊い!」というのはすごくわかる(私も男ウケより自分ウケ派だし、ロリータ服も好きなので)けど、「自分を貫く」というところで無暗に尖って攻撃的になってしまうのは勿体ないな、と彼女のコラムを読んでいて思った。

 この記事で紹介されていた「自分がロリータ服を着ていることを伏せた状態で出会い系アプリで人とやりとりし、初対面の日にロリータ服で登場したらドン引きされて嫌な反応をされた」というの、これは青木さんも少し意地悪だと思う。そんなの、わざと引かれるような状況を作ったとしか思えない。たしかに「ナース」というのも嘘ではないけれど、お互いの姿を知らない状態で出会うからこそ、驚かせてしまうであることが予測できる特徴は伝えるべきだったんじゃないかな。それは別にロリータに限ったことじゃない。逆の立場で考えても、私だって「30代・医師」とか「30代・教員」とかそういう情報で、出会ってみたら金髪でピアスだらけのお兄さんが来たらびっくりするし上手く反応できないかもしれない。でも事前に「プロフィールも本当なんですけど、見た目はこうなんです。」って言われていたら「そういう人もいるんだ!へえ!おもしろ!」と思うし、会った時も和やかに「ほんとだ!プロフィールとはイメージが違うけど、似合いますね~!」って反応できる気がする。

青木さんは、ロリータ服に偏見がある人は勿論だけどそうでなくても驚かせてしまうようなやり方を敢えてとって「ほらね、ロリータってこういう反応される!」と卑屈になってしまっているような気がした。相手の反応が失礼なのも事実だけれど、彼女の方だって最初から真剣に相手に向き合って出会う気なんてなくて、そういう反応を確かめるために敢えてそういう出会い方をしただけでしょう…出会い系で真剣に相手を探している人達に対してすごく不誠実だと思う。

 

彼女の過去のコラムを読んでみると、ロリータを説明するために「ロリータとロリコンとは違うんです!」とロリコンを非難する言い方をしたり(私個人としてはロリコンという性的嗜好を持つこと自体は蔑まれるべきことではなく、非難されるべきなのはそこから犯罪に行動をうつしてしまう人のみだと思うので、なんだか違和感があった)、「ロリータとぶりっことは違うんです」とぶりっこを蔑む言い方をしたりと、ロリータ代表としてロリータを説明するにしてはずいぶん攻撃的な気がした。ロリータの魅力を説明するのに他者を非難することは必要なのですか…?と疑問に思ってしまう。ロリータファッションが色々な方向で誤解されがちで不快な思いをしているのだろうが、「あれと一緒にしないで」「あんな奴らとは違うの!」という言い方では誤解は解けても魅力は伝わらず、閉鎖的な世界として"異物"のままになってしまうのではないか。それよりも「こんな素敵なことがある」「ロリータ界のこんな文化にはこんな意味がある」など魅力を紹介していくうちに自然と誤解を解くの方が有効な広め方と言える気がする。

 

ロリータ服って、街を歩くだけで指をさされたり勝手にカメラむけられたり笑われたりするし、男ウケなんか興味ないのに「男ウケ悪いよ」なんて謎に上から目線なアドバイス受けたりするし、「ゴスロリ」とか「コスプレ」という正しくない括られ方をしたり、青木さんも嫌な思いをたくさんしてきてると思う。だからこそ棘のある言い方になってしまうのもわかるのだけれど、それでも「自分を貫く」というのならば、誤解されてることへの不満をとげとげしく語るよりも、楽しく魅力を語ってほしいと思った。

 

既婚者や子持ちの人に見下されるの意味不明だし不快ですって話

 「適齢期になったら結婚をして子どもを産むのが当たり前」という価値観を持つ人はいまだに多い。私もそう思っていたから、子供の頃は「結婚したら子供が"産まれる"」という表現を使っていた。将来の夢がサッカー選手であろうがケーキ屋さんであろうがセーラームーンであろうが、その結末は誰しもが素敵な人と結婚して子供が産まれるものと思っていたくらいに自然に染みついていた価値観だった。しかし、実際には結婚を「しない」「できない」「産まない」「産めない」様々な人生があって、そこにはそれぞれの幸せや苦悩があるはず。ずっと独身であることや子供を産まないことで不快な言葉を投げつけられることは多々あるけれど、どんな選択だって否定されるべきことではないし蔑まれることでもないと思っている。そんなことを私(アラサー・未婚・子なし)の視点で綴って行こうと思う。

 

 以前、女優の山口智子さんが子供を産まないという選択をしたことについてインタビューで答えていたことがあった。不妊などの理由からではなく自らの意思で子供を産まないという選択をし(理由等はここでは割愛しますが)その決断に後悔はないという旨を語っていた。その記事に対してネット上ではなんと「産みたかったのに産めなかったってちゃんと言えばいいのに」だとかいう頓珍漢な反応をしている人が何人もいたのだった。そこで初めて、こんな風に独身者や子供がいない人を無条件に蔑む人が居ることを知った。ネット上で沸き立つあらゆる議論を眺めていても、子供だとか結婚だとか全く関係のない話題の時までも「結婚して子供を産めばわかりますよ」だとか「そんなこと言うなんて、もしかして独身ですか?」「あの人、子供居ないからね…」などと言い出して、それらを経験していない人を未熟な人間かのように蔑む人達は多く存在するようだった。

 独身や子供を持たないことを否定する既婚・子持ちの人達は、私が子供の頃にそう考えていたように、誰しも辿り着くべき正しい道は「結婚して子供を産む」という道であることを前提に生きている(或いはそう思いたい)のだろう。そしてある程度の年齢になってそれをしていない人は「できない人」即ち「自分よりも劣っている人」なのだとも。

 

 しかし、私は入籍するもしないも出産するもしないもそこに優劣はないと思っている。自らの希望でそれらを選んだ人は勿論、したいのに出来ない人や仕方なくした人も含めてそこに優劣はないと。

 私自身はというと、現時点では未婚で子供もいない。結婚を考えながらお付き合いしている彼が居るので、互いに急いでは居ないけれど入籍はすると思う。彼と付き合い始めて「彼と一緒に暮らして将来も一緒に居たい」という気持ちがわいたので、彼がそれを結婚という形で叶えてくれるのなら是非そうしたいと思ったのだ。けれどもしそう思える相手が居なかったのなら「結婚するために相手を探す」ということはせず、独身で生涯を終えるためのプランを考えていただろう。実際、彼に出会うまでは一人でいることを想定して生きていたし。

 出産に関してはまだ未定。「もしも子供が産まれたら…」という素敵な想像はするけれど、それはいつだって心身ともに健康な子供であることが前提であり、「もし重い障害や持病をもって生まれてきたら?」と考えると想像できない。子供が好きだからとか可愛いからとか愛の証だとかそんな私たちの勝手な気持ちで命を産みだして、ずっと子供に大変な思いをさせてしまったらどう責任をとるのか…?と思うと、簡単に「子供を作ろう」とは思えないのだ。そしてこれはよく語られる理由ではあると思うけれど、今は彼と二人で居る時間がすごく大切で幸せなので、「子供が居るのも素敵」だが「子供が居た方が素敵」とも思っていないのだ。これらは現時点で一致している二人の考えで、色々と理由を並べたけれど結局のところ私たちの性格上は躊躇する点が多く、結論として「『絶対欲しい』と思わない限りは作らない」ということで落ち着いている。この考え方は他人に推奨したいわけではなく、あくまで私たち二人の場合は性格上こういう選択がベターだというだけである。

 

 時々、既婚・子持ちの人達から結婚や出産を急かされることがある。私がまだそれらをしない理由を問われて前述のような理由を述べると、大抵は「結婚してもお互いの趣味は続けられるよ!」「子供がいたって夫婦の時間もあるしデートもできるよ!」「結婚・出産したら大切なものが増えるだけ!二人の関係は変わらないよ!」「子供は親を選んで産まれてくるから、育てられない子供は産まれないよ!」などと、私が独身でいることや子供を産まない理由を打ち消し、結婚・出産を無責任に強く勧められる。彼女たちが現在幸せだというのも嘘ではないのだろうけれど、なんだか「私は何も失っていない!私の方が幸せ!」と自分に言い聞かせるかのような必死さや、「自分とは別の形の幸せがある」ということを認めたくない頑なさを感じてしまう。

どちらにも良い面や悪い面があると思うし、それぞれ得るものも失うものもあると思う。そしてそれらの感じ方も人それぞれ。彼女らが「旦那・子供がいる生活が幸せ」というのも「あなた達の場合はそうなのね」という話であり、私がそれらをせずに幸せなのも「私の場合は」なのだ。それぞれの幸せや環境が互いに当てはまるわけではない。各々が自分で選択して生きているのだから、それで良いではないか。…とはいえ、自分と異なる選択を否定したくなるのはわかるけれど。例えば自分が子育てでてんてこまいの時に独身の友人が綺麗に着飾って自由に遊んでいるのを見たらモヤモヤする瞬間があると思うし、逆に自分が独身でもう子供産むのも難しいなっていう歳になった頃にふと楽しそうな家族連れを見かけてモヤモヤすることだってきっとあると思うから。それでも、自分の人生を肯定するために、自分とは別の選択をした人間を否定すべきではない。

 

 私は中学から大学まで女子校だったこともあり、「女性の自立」「ジェンダー」などの授業で性や生き方の多様性について幾度も触れていたので、ありがたいことに「結婚すべき」「出産すべき」というような固定概念から解放され、他のあらゆる選択肢の例を提示してもらえる機会は多かったように思う。また、ほとんどの友人が高校卒業後は4年制以上の大学に進学して就職をするという進路だったからか結婚・出産ラッシュも比較的ゆっくりめな方で(むしろ出産はまだそんなに多くない)、若くして周囲の結婚や出産ラッシュに焦る環境でもなく、「みんなそうだから」と流されることなくゆっくりと自分の今後を考える時間があった。そして男性は特に「子供をつくらないなら結婚するメリットがない」というような考え方をする人も多いように感じるけれど、そんな中、「子供はどちらでも良いけど、結婚したい」と言ってくれる彼と出会えたことも、私は幸運だったと思う。

これからのことはわからない。彼と結婚しないかもしれないし、子供が絶対に欲しいと思う時がくるかもしれない。だけど、その都度きちんと自分にとってのベストな選択をしていきたいし、いつでも自分の選択に自信を持って生きたいと思う。

 

FEELCYCLEの退会の仕方について

以前こちらの記事でも通販などの会員登録と退会について触れたことがあったけれども、

yogoretemoiino.hatenablog.com

先ほどの記事を書いて、そういえばフィールサイクルの退会もまたややこしかったということを思い出したのでここに書いておく。

 

web上のマイページからの退会手続きはできないようだったので受付で退会を申し出たところ、しつこく引き留められることはなく「マンスリー会員(=定額行き放題)を解約すると、自動的にチケット会員になる」という説明を受けた。つまり、月々の引き落としはなくなるけれども会員としてのアカウント登録は継続されて、チケット(という名の都度クレカ引き落とし)でのレッスンは引き続き予約が可能とのこと。「退会」の解釈違い…?と思いつつ、それがここでの「退会」の手続きならばとりあえず…と、その解約手続きをした。

 

しかし数か月後、もう利用することもないだろうにこのまま無駄に会員としてアカウントを持つのも気持ち悪いなーと思い退会方法を調べたところ、ホームページのFAQをみても「解約」とはチケット会員になることとされており、そのチケット会員を解約すること、即ち完全なアカウント利用停止の案内が一切ない。なにこれ怖い!

せめてクレカ情報(原則としてクレカ決済のみの対応なので登録していた)だけでも削除しておこうとしたところ、マイページからはクレカ情報の変更はできるものの削除はできない。結局、完全な利用停止を求めてカスタマーセンターに連絡をし、メールで何通かの事務的なやりとりを経て無事にアカウント(マイページ)の利用停止処理とクレカ情報の削除処理をしていただけた。

結果的には削除してもらえてよかった(対応も丁寧で質問にもきちんと的確に答えてくれた)けど、この「解約」と称して解約していない・利用停止の方法が明記されておらず、問い合わせてはじめて対応してもらえる…という点だけはちょっと意味不明だよ~…思った。冒頭に貼った記事にも書いたことだけれど、会員登録がわかりやすくて簡単なら、退会の手続きも同様にわかりやすく明記しておく方が印象がいい。

 

ということで、マンスリーやリミテッドを解約したものの、いつまでもチケット会員として籍が残っていて解約できていないことに不安や疑問を感じている人はカスタマーセンターにその旨をご連絡することをおすすめします。スムーズに対応してもらえますよ。

 

最後に。。私のように退会できなくて困惑してる人がいたら…と思ったのでこの記事をかいたけれど、フィールサイクル自体は私みたいにコミュニケーションが苦手な人間でも運動を楽しめる良きジムだったと思うし、こうして申し出ればきちんと対応をしてくれるわけなので、興味ある人にはぜひ行ってみてほしいな~、という気持ちは変わらないです。