「靴下常備」は一般常識なのかい?

自分が"常識"だと思っていることが、必ずしも誰にでも通じる"一般常識"であるとは限らない。自分が「これはマナーだ」「これが常識だ」と思って居ることが、実はその界隈でのみ通じるローカルルールかもしれないし、自分の都合の良いようにねじまげてしまったマイルールかもしれない。誰にも彼にも「これはマナー」「これが常識」と自分の思うそれを押し付けるのは、それこそ世間知らずな非常識だと私は思う。

 

ツイッターで「サンダルに素足で出かける時は靴下を持ち歩く」「サンダルに素足で家にお邪魔する時にはサンダルを脱ぐタイミングで靴下を履く」という"マナー"について論争になっているのを見た。私はそんなマナーを知らなかったので検索してみると、ママ友(という言葉って、気持ちが悪くて私は嫌い)同士であーだこーだ言い合ってお育ちマウンティングしてる掲示板がいくつも出てきて、正直その時点で「うわぁ…そういう土俵でのお話か…」という感じだったのだけれど。私の周りの友人は小学校や中学校から私立に通っている人間がほとんどで、それなりにちゃんとした家の子が多い。しかし、人の家(あるいは靴を脱ぐタイプのお店)に上がる時に靴下をとりだして履き始める人にいまだかつて出会ったことがなかった。そもそもマナー云々気を付けなければならない際には、靴を脱ぐ予定の有無にかかわらず素足にサンダルで出かけることはあまりないからかもしれないけれど…。

 

「素足で人様の御宅にお邪魔するのは失礼」ということはわかる。だから、人様の家に遊びに行くときは靴下(ストッキングでも)を履いていくというのもわかる。しかし「素足で出かける際は靴下を持ち歩くのがマナー」は、いやいやそれはローカルだろ!と思ってしまう。玄関で「おじゃまします(靴下着用)」「おじゃましました(靴下ぬぎぬぎ…)」という光景を想像してみると全然スマートじゃないし、むしろみっともなく思える。その行為もそうだし、素足前提のコーディネートにちょこんと靴下を履いている様も全く美しくない…。私がみた掲示板では「これはマナーですから」「靴下を持ち歩かないなんて、親が教えてくれなかったのかな…」「そういう時にサッと靴下を履いたほうが品良く見られますよ」などとそれをしない人を声高らかに見下している雰囲気だったけど、それはどうも同意できない。

靴下を持参することを否定するわけではない。現代でそれをやるのはスマートじゃないと個人的には思うけれど、それらも気遣いなのだから。でもそれが一般的な"マナー"だったのは、お邪魔する先が和室であること前提の時代のお話じゃないかと思う。茶道では茶室に素足はNGで、基本的には和服に足袋。お洋服で茶室にあがる場合は白い靴下を持参し着用するものだから。というのも、昔は道がコンクリートじゃなかったし足袋カバーなんていう物もなかったので、足袋はとても汚れやすかった。そのため、茶室という神聖な場所にあがる時には綺麗な替えの足袋を持参していたのだ(現在は道は整備されているし足袋カバーもあるのでそこまでしなくて大丈夫だけど)。そしてお洋服でお茶室にいく場合にも、足袋の代わりという意味と綺麗なものに履き替えるという意味も含め、少し不格好でも白い靴下を履くのが一般的なマナーとなっている。おそらくこのようなところから、おばあちゃんからおかあさんへそして娘さんへ…とこれをあらゆるところで通ずるマナーとして教えられたのでしょう。しかし、この「神聖な茶室での靴下持参」の意味合いを考えると、道も整備されていて服装も家も洋風がデフォルトとなった現代にはあてはまらないものだと思う。みんながみんなに浸透していなくて当然である。

もし小さい子供(素足)を連れていて、人の家や屋内施設にあがる時にささっとその子に靴下を履かせることがあれば「しっかりしたママ」という風に思うかもしれないけれど(子供が素足で出かけると大人じゃありえないくらいに真っ黒けに足を汚してたりするし、子供はスリッパを出されてもちゃんとはいていられずにどこかでいつのまにか脱いでいたりするし、冷房の中で足が冷えちゃうし、とか色々な面で靴下はかせちゃうのが合理的なのかもね!という感じ)、大人が靴下を出してきてはきはじめたら「どうしたの?」と思ってしまう。勿論、相手が靴下を履いたところでこちらに不都合はないから結構だけど(人によっては「うちの床やスリッパが汚くて嫌なのかな?」と捉えてしまって逆に失礼なときもあるのかも。)。ちゃんとした人として見られたいなら、人の家やお店のお座敷にあがらないとわかっている時でも"人と会う"という時点で常に靴下やストッキングをはくべきなのだ(ちなみに茶室ではストッキングもNGですが)。私個人的としては「素足で失礼します」の一言を言える人や、携帯用スリッパを常に持っている人(自宅に招く際にはこちらで出すから不要だけど、公共の施設でスリッパもろくにないのに土足厳禁の施設ってたまにあるからね)に対しては「きちんとした人だな」と思うけれど、靴下を持ち歩いている人には特に上品だとか思わないです。おばあちゃんから習ったのかな、お茶室とか出入りする習慣があるのかなとかそういう感じ。

 

「素足の際は靴下を持ち歩くのがマナーであり、持ち歩かない人は非常識!」と非難する人には、「もし持ち歩かない人が気になるようならあなたは人を家に招くべきでない」ということは言っておきたい。素足で床を歩かれるのが嫌ならばスリッパを出せばいいし、スリッパすら素足ではかれたくない人や、一日履いてた靴下は汚いから靴下履き替えろと言う人など、客と自分の"マナー""常識"の認識の些細な不一致を想定できない人は、人を家に招くべきではないと思う。誰から見ても大迷惑な非常識さんに対してまで我慢しろとは言わないが、些細なことであれ嫌だこれはダメってマナーを押し付けたり見下したりするよりは、「自分が思う"常識"がすべての人にとっての"常識"でない」ということを理解し、「招く側は客に気を遣わせない」ということを身に着けたほうがよほど上品。マナーは自分のお上品アピールのためにあるものでもなければ、自分が不快にならないために他人に押し付けるものでもない。お互いが気持ちよくすごすためのお互いの気遣いなのだ。臨機応変に対応できてこそ、"上品な人"だと私は思う。エリザベス女王が、客人に恥をかかさぬようフィンガーボールを飲んだというお話のようにね。

 

ネットでの会員登録・退会のお話

近年は何をするにも会員登録が必要なサービスは多い。なにかをしようとした際に会員登録を求められ、登録無料であれば大して考えもせずとりあえず登録してしまう人も少なくないだろう。

そして多くのサイトは「初めての方(新規登録)」だなんて登録への誘導を大きくしつこく各所にのせているのに、退会となると「退会」というリンクをどこにも貼っておらず、Q&Aの「退会するにはどうしたらいいですか」という質問の回答に飛ばないと退会ページにまでたどり着けないのがデフォルトになりつつある。ひどいところだと

 

今退会すると~が出来なくなってしまいます!本当に退会しますか

退会するのをやめる】

それでも退会する(←超小さくてわかりにくいリンク)

 

だなんて、引き留めるための無駄なステップを何ページにもわたり用意していたりする。恥を知らないというか品がないというか。退会処理に手間をかけさせたり退会方法をわかりにくくさせることにより退会を防ごうとするなんて、悪質スパムのようで気分が悪い。言葉巧みに部屋に客を招きいれ、出口をふさぎながらセールストークをしてくる悪質な押し売りと同じだ。そんなことはせずに、退会させたくないなら退会したくないと思わせるサービスを提供するべきである。

 

数年前にベルーナ(RyuRyu)で買い物をしたら、頻繁にカタログが送られてくるようになった。女性向けファッション誌のようなそれは、激安というほどではないけれどプチプラと呼べる価格帯の可愛いお洋服が多く載っている。しかし2,3度買い物をしてみたもののどれも届いてみるとガッカリするものばかりだったので(縫製が極端に悪かったり、写真と色味が違ったり、素材があまりに安っぽかったり)、もうここは退会しようと決めた。他の通販会社と比べてもかなり頻繁に届くのでチラシや冊子がたまってしまうのにも困っていたし、IPSAの情報流出(私はクレカ情報の登録はしていなかったので金銭的な被害はなかったが、メールアドレスが流れてしまったようでRaybanのサングラス云々という定番の迷惑メールが毎日くるようになってしまった)以降は個人情報の登録に関して以前より気にするようになっていたので、不要なサービスからはしっかりと退会しておきたかったのだ。

 

Web上で退会処理を行った。ベルーナのサイトのQ&Aから退会手続きのページにとび、自動返信の退会処理完了メールが届いて手続きは終了。これでひたすらカタログを開封してゴミの分別をして捨てるという作業から救われる!と、とても清々しい気分だった。ところが、退会から2か月が過ぎているというのに続々とカタログや会員向けの広告が届いている…。さすがに不審に思い中身をよく確認してみると、なんと「○月○日時点でのお客様の利用可能ポイントは~ポイントです」と、退会日付以降の所有ポイントが印字されていたのだ。たしかに退会手続き完了のメールが来ているしもうログインも出来ない状態になっているのに、どうして会員番号が生かされてるの??ととても混乱し、すぐにお問い合わせ窓口にメールで問い合わせをした。

問い合わせた内容は

「退会処理を完了したはずが、カタログを送られ続けて困っている。同封されていた注文用紙を確認したら退会日付以降も会員番号が生きているようだ。ネット上の手続きだけでは退会は完了していないのか。個人情報が心配である。」

 という旨。

すると翌日には返信が来た。回答を要約すると

「たしかに退会手続きは完了しているが"ベルーナネット会員"を退会したのみで、電話・FAX・ハガキでの注文は可能な状態にある(=会員番号やポイントはこれまで通り生きている)し、カタログも今まで通り発送され続けるようになっていた。今回カタログ不要とのことなのでカタログ発送を止める手続きはしたが、個人情報に関しては電話にて問い合わせてくれ。」

という返答が。私の質問に対してきちんと丁寧に明確に答えてくれて、問い合わせに対する対応としては不快な点はなかった。しかし内容には唖然とした。web上で退会手続きをすることには何の意味もなかったのだ。それだけではカタログも広告も届くし会員番号も生き続ける。ただネットの会員ページにはログインできなくなり、メルマガなどをとっていた場合はそれが届かなくなる。ただそれだけなのだ。私のように退会したつもりで実は退会できておらずに個人情報を預けっぱなしの人がどれだけいることか…!ベルーナに限らず、web上で会員登録をしweb上で退会処理を行うことは多くある。自分が退会済みだと思っていたものが実は「退会したのは"ネット会員"のみで、登録自体はされたまま」ということが他にもあるのではないか…と怖くなった。あるのではないか、というかおそらくあるのだ。今回はカタログが頻繁に届いたから気づいたというだけだ。

 

「サービスが不要になったらこの手順で退会できます」と、退会の案内が登録案内と同じくらいしっかりわかりやすく提示されていたほうが、企業としての誠実さを感じるし安心して登録ができるのではないかと私は思う。登録は誰にでもわかりやすく簡単にできても、退会方法は検索をかけて探したり個々に問い合わせが必要になってしまうようでは、「自分で登録できる人」が「自分で退会できる人」とは限らなくなってきてしまう。スキー初心者をリフトで上級者コースまで連れて行き、「自力で勝手に滑ってきてね~」と言って頂上に放置するようなものだ。

老若男女だれでもインターネットを気軽につかう時代になった今こそ、サービスを提供する側は情報弱者の足元を見るようなやり方で儲けるのではなく「誰にでもわかりやすく」して信頼を築くべきだ。会員登録を簡単にするのであれば、退会方法も同様に簡単にすべきだと私は思う。

 

ちなみにベルーナの個人情報について対応してくださる窓口は平日の昼間しかあいておらず、私は仕事やら何からでなかなか電話をかけられずにいるので、カタログ発送は停止されたものの私はいまだに会員なのだと思う…(笑) 

私は、ここよ。

吉祥寺シアターにてAllen suwaru『空行』を観た。

 

以下、公式サイトによるあらすじ

 

その街は炭鉱であった。

 大きな何かは判らない荘厳な塔のような機械のような古びた建物。

 石灰の匂いと白い埃、希望を求めて人々はほこりを巻きちらし穴を掘り続けた。

その営みの中、少女が産まれた。

 貧しい家族にとってそれは望まれていない生命であった。

ある日、炭鉱と置屋のオーナーであるモトヤマが連れてきたのは、10歳のその少女だった。

 

 「イチカです。何も知りません。色々教えてください。」

 

 少女は教えられた通りに言葉を発した。

 炭鉱夫たちは金を払い少女で自身を慰める。

 少女はモトヤマの息子のヒロトと出会う。

 彼の読む物語を通して、イチカは世界を知って行く。

 彼女の持つ信念を通して、ヒロトは自分を知って行く。

 運命を受け入れる少女と、運命を壊したい少年の心は、どこに答えを見つけるのだろうか...

 

大人って寂しいのよ。だから近くの誰かを求めるの。

でも子供はそんなこと必要ないの。だって一人じゃないってことを知っているから」

 

 

"大人が寂しい"のは、愛を愛だと知ってしまうからなのかな。お金のことばかりのモトヤマが、出て行った妻のことを「金で買うもんじゃねえ」と言った。ミナコだって親の言うことを押し切って愛する人(炭鉱夫)のもとに嫁いできた。あの場所に響いた、ミナコの「自分を」という言葉。愛に触れたことがあるからこそ、寂しかったり強がったり諦めたりしているように見えた。大人は愛を知って、逞しくもなるし弱くもなるのかもしれない。

愛は、好きを包む感じ。伝えるのではなくて、与える。赦す。「あなたを赦します」と言ったイチカは聖母みたいな清らかさで、愛にあふれていた。答えがわかった彼女は「出たい」と思ったのでしょう。

 

來河さんが現実的な話にしたいと思っていたのに対し、脚本家の鈴木さんは希望のある話にしたいと言っていた為、あのような終わりになったということをアフタートークで聞いた。藤田さんはラストを「かけおち」という言葉を使っていたっけ。ドアの外へと踏み出す二人は、確かに希望に向かっているように見えた。けれど何も持たない二人、もう長くないであろうイチカ。「2人で忌まわしい環境から脱出!家族を作って幸せに暮らしました!」というようなことにはきっとなれないし、状況的にはハッピーエンドではないだろう。だけど2人の心情はきっとハッピーエンド。こういうのをメリーバッドエンドというのかもしれない。

水の中で始まるあの会話は、愛を愛だと自覚したあの日の2人の会話が、記憶が、希望が、叫びが、深い海の底に沈んでいったように思えて。お芝居が終わり、客電がつき、波の音とカモメ以外に何の気配もなくて。もうあの2人がこの世界にいないように感じたのだった。

菅本裕子という女。

私はぶりっこが大好きだ。だって可愛いから。

ぶりっこといえばタレントだとさとう珠緒小林麻耶田中みな実など「同性から嫌われる女性の代表格」みたいなところがあるけれど、実際は私のように「ぶりっこ可愛い!」と思っている女性は多いと思う(特に女子校育ちのそこのあなた、そうでしょう?)。女性が選ぶ嫌いな女ランキングにぶりっこ系の芸能人が軒並みならんでいるのは信じられない気持ち。「可愛い女は同性に嫌われるんだよな!」っていう男性の中での勝手な"女同士って陰湿でコエー!"みたいなイメージで面白おかしいランキングになるよう情報操作されているだけじゃないのか?と疑ってしまう。

 

しかし、ついに現れたのだ。男性よりもむしろ女性から支持されている自称ぶりっこでモテクリエイター(?)の、「ゆうこす」こと菅本裕子

個人的に、彼女からは「モテたくてバンド始めました!」とか言って実際は客が全員暑苦しい童貞男子しかいない汗臭いパンクロックバンドマンみたいな精神を感じる。そんなロックな内面と可愛らしいビジュアルと色々あった過去とがかけあわさり、アイドルでもなく(いや、アイドルだったんだけど)少女マンガのヒロインでもない、恋愛ドラマのヒロインでもない…例えるなら、『グミ・チョコレート・パイン(グミ編) (角川文庫) [ 大槻ケンヂ ]』のヒロイン・山口美甘子のような感じなのです。わかるかな、これ。私にとっての彼女の魅力は本当にこれなのだ。(ちなみにこの本とても暑苦しくて胸がぎゅっとなって…オススメ。)

 

…しかし、そう思っているのは"こっち側"の人間である少数派なのかもしれなくて、一般的に例えばインスタ層とか美容系youtube視聴者とかかわいらしい女性たちの中ではどこが支持されているのか?と私なりに考えた要素は以下の通り。

まず、彼女には「人を蹴落として自分を可愛くみせる」というような陰湿さや、自分を取り繕って無理してぶりぶりしている感がない。その自然体っぽさがポイントだと思う。彼女はファンの女の子達に「一緒に可愛くなろう」と可愛い自分を作るための手のうちを明かすし、可愛くキメ顔したあとに「はい、ナルシスト~」と自分で突っ込みを入れていたり、化粧の工程で何かを塗る時の変な顔も敢えて写したり、コスメレビューは的確でわかりやすく、メイク道具が少し汚れていても「男子!女の子ってこんなもんだから!」とそのまま見せる。ぶりっこ芸を挟みつつも、飾らない自分を上手く出していくことで、女の子から「敵」と認識されずに親しみを持たせることができるのだ。高須先生がこの記事(石原さとみvs綾瀬はるかの美的対決に高須院長「表情美人とズバリ整形してない美人」 | 週刊女性PRIME [シュージョプライム] | YOUのココロ刺激する)で綾瀬はるかさんのことを「女性は“敵か敵じゃないか”も判断の大きな理由だから、安心して心から褒められるタイプの美人でしょう」と言っていたけれど、彼女はこれだと思う。

そして、いつも「みんなのおかげ」という姿勢を崩さずにいて感謝の言葉を欠かさないこと、各方面で話題になりつつある今もファンとの交流を大切にしていて「遠い存在」と感じさせない気さくさも、ファンの心をさらに掴むのだろう。

 

こうして書き出してみて気付いたけど、結局一貫して「飾らない」「気さく」が重要なところで、ぶりっこ要素が支持されているわけではない…むしろ「ぶりっこを軽減することにより好かれている」と言えるに等しいのでは…。というか、ゆうこすは全然ぶりっこではない。結局ゆうこすは「女性ウケがいいぶりっこ」ではなくて「ぶりっこじゃないから女性ウケがいい」のだ。考えてみれば服装だって、ゆうこすがよく着用しているHONEY MI HONEYとかsnidelって男性からみると「??」となる一癖あるデザインが多い所謂"女性から見たカワイイ"の代表格だと思うし。そもそも「男の子が大好き」「モテるために生きている」と言っているしそれも本心だとは思うけれど、彼女のその原動力の根本は男性の目を気にすることよりも「なりたい自分になること」「自分が自分を好きになること」(そしてその結果がモテること)という感じがする。それってモテとかぶりっことか性別とか関係なく多くの人にとって重要なことであり、結局そこなんだな、魅力。

 

ということで、ぶりっこゆうこすの魅力を語るはずがゆうこすはぶりっこというよりロックな人だという流れになってしまった()ので、「好かれるぶりっこ」や「嫌われるぶりっこ」など王道ぶりっこについての記事はまたの機会に。

 

 

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近頃のインターネット広告よ。

芸能人や人気インスタグラマー、ブロガー、youtuberなど、いわゆる"インフルエンサー"と言われる人達が発信する、ファッションや美容系の情報を見るのが好きだ。しかし最近、それらについて思うことがある。

彼女たちが「ここ行ってきたよ♪」「~get!」「~プレゼントしていただきました」と、同時期に同じコスメや同じ美容クリニックやサロンを紹介しているのをよく見かける。あれらは見ての通り、企業からインフルエンサーに無料で提供されているものを紹介している広告活動。彼女たちはお仕事として商品やサービスを紹介している。(※ギャラがある場合や、無料で提供する代わりに紹介してもらうお約束だったり、またはあくまでただの「プレゼント(SNSで紹介してほしいな…チラッ)」ということだったり、色々なケースがあるとは思うけど…どの場合も基本的には"お仕事"というスタンスだと捉えていいと思う。)

私はそれが、そのインフルエンサーが発信するコンテンツの魅力を低下させると共に、その宣伝された物や会社の価値も落としていると思う。

 

なぜ上記のような広告活動がコンテンツの魅力を低下させるかというと、企業タイアップのレビューが増えると、コンテンツ内でのプライベート感が減り、発言の信憑性も下がるのだ。

そもそも、なぜインフルエンサーインフルエンサーになるのかというと、「この人の愛用品や行きつけのお店が知りたい」「この人が選ぶコスメがすき」「この人のファッションを参考にしたい」などと多くの人に思われるからだ。そしてそれは、彼女ら個人のセンスにより商品やお店の情報が発信されていることが前提である。芸能人のSNSも同様で、「番組や雑誌で見せる顔よりもプライベート感がある」情報、つまり同じく個人的な発信であることが魅力なのだ。受け手は、彼女らが自ら選び購入している商品やサービスやそれに対する率直なレビューに興味を持っている。それが企業タイアップが増えることによって、企業に依頼された(=彼女たちのセンスで選んだものではない)物の紹介が増えると、そのコンテンツの魅力は半減である。

また、タイアップ投稿の場合、それらが用意された宣伝文句を言わされているにしろ、自分の言葉でレビューするにしろ、お仕事なので実際の使用感はどうあれ一応褒める。正直なところ「これ使えないわ」と思っていても一応褒めるのだ。まあその辺は「これはタイアップ投稿だからな」ということを念頭に置いてみるからいいとして、そうすると、タイアップではない個人的な愛用品紹介をしても「これもPRだったりするのかな」という気がしてきて、その人の発言全体の信憑性が低下してくる。

こうして、本来のコンテンツの魅力はどんどん失われてしまう。

 

そして、この広告の方法がコンテンツの魅力だけでなく商品や企業自体の価値を落とすと私が思う理由は、受け手はその企業や商品に対して「有名人に無料でバラまいている」「ステマをしている」「有名人を特別待遇している」というような印象を抱くようになるから。

特に高価な商品やサービスは「高いから効きそう」「普段は手が出せない憧れのブランド」など、商品そのものの効果の他に様々なプラシーボ効果が重なってやっと価格相応の効果を感じられるものだったりする。それが芸能人やインフルエンサーに無料でバラまかれ、あっちでもこっちでも「いただきました♪」なんて言って商品を紹介され、企業が彼女らをあれこれ接待している様子が目に入ってくると、「またこの人たちにバラまいて宣伝させてるのか…」という気持ちになり、ブランドとしての品格などが損なわれ、プラシーボ効果が半減してしまう。特に、その待遇を受けているのがブランドイメージに合うような特定の有名人数名だけ等ならともかく、youtuberやインスタグラマーなどの受け手側からすると"一般人"という認識されているインフルエンサー(実質、一般人とも言えなくなってきたのが現状だけど…)にまであちこちバラまいていると、尚更付加価値が半減されてしまう。

また、このような宣伝の仕方は、"広告"としてではなくてあくまで"コラボレーション"等とすることで広告との線引きを曖昧にし、インフルエンサー本人がすすめているような印象を与えられることで宣伝の効果をより得ていると思う。これに関しては一昔前はそれこそ詐欺のごとく「これ愛用してます♪」みたいな書き方をしてプライベートで購入したことを装って宣伝しているステマが多かったけど(やたら説明くさかったり、URLの貼り方とかでわかる人にはそれがプライベートではないことがわかったと思う)、ペニオク騒動以降はやり方に気を付けているように感じる。例えば「~社さんからプレゼントでいただきました」などと"自分で買ったわけではない"という旨を明言させていたり、入手した経緯は明記していなくても「#PR」というタグをつけてレビュー記事を投稿していたり、アメーバを通した広告記事だと「公認」バナーがついたりと、商品のPR投稿だということがわかるようになっている場合も多い。ペニオクにようなことにならないように、注意しているのだろう。こうして厳密に言えばステマという枠からは逃れているであろうが、一般層からみた印象としてはこれらはステマと同じだし、情弱なら「愛用してるんだ!」と真に受けてしまう人もいると思う。こういうやり方って、足元を見られていると感じてしまう。例え実際に良い商品だったとしても「ここの商品あちこちでステマしてるし、どうなの?」と、あまり好ましくない印象になり、商品や企業の信頼感も薄れてしまうのだ。

それに、芸能人が「美容クリニック行ってきたよ♪」「脱毛サロン行ったよ!」と紹介しているところだって、実際は料金もそこそこするし予約もなかなかとりにくい。芸能人のように「仕事の合間に気軽に♪」なんて到底無理で、予約をとろうとしてもびっくりするくらい先まで予約が埋まっていて、予約が難しかったりするのだ。芸能人やインフルエンサー達が特別待遇で予約がとられて無料でサービスを提供されているであろうことを考えると、必死に予約を取って高額を支払うのが馬鹿らしくなる。「有名人多数ご来店・ご愛用」なんてうたわれても「そりゃあ、バラまいてるんだからそうでしょうね。」「こっちは高いお金払って大行列に並ぶんですけどね…。」と思えてくる。こうなると、一般客を大切にするよりも有名人に媚びることに力を入れている、一般客(特に情弱)の足元を見る企業という印象を抱いてしまう。

 

インフルエンサーに「お金儲けをするな」と言いたいわけではない。多くの人に有益な情報を発信しているのであれば収入があるのも妥当だと思う。だから推奨する商品をアフィリエイトのリンクを貼るのは大いに結構だし、記事や動画内に広告(と明確にわかるもの)が挟まれることにも異論はない。

また、企業側に、彼女らを使っての広告活動をするなと言いたいわけでもない。この時代にインフルエンサーSNSで人気の芸能人を使うのは時代に合ったやり方だと言える。CMに何人もの有名人を出演させるよりも、低コストで効果的な賢い方法なのかもしれない。しかし、これにはいくつかの改善が必要だと思う。例えば「バラまいている」という印象を避けるために少数先鋭にしぼることだったり、それが企業発信の広告であり彼女らが自ら発信するコンテンツとは違うということを、情弱でもわかるようにもっと明確に示すことだったり。

テレビやラジオで流れるCMだって、番組とCMははっきりと分かれている。ネット上のホームページにある広告だって、広告は広告だとわかるように表示されるのが通常だ。しかし芸能人やインフルエンサーを使ったステマまがいの広告は、例えるならばスマホ用のサイトでスワイプと同時に動いて誤タップさせるような不快な広告や、「>>次のページを見る<<」などとコンテンツ内の一部を装ってリンクをタップさせるようなスパム広告と同じような印象を受ける。ネット上でのあらゆる広告活動はこれからも少しずつ形を変えていくのだろうけど、今あふれている、企業と発信者たちが双方の価値を落としていくこのスタイルが早く廃れていくといいな…。

 

歳を重ねるって、楽しい。

私は現在27歳、歳を重ねることが楽しいと感じている。

社会に出て数年、それなりに貯金も貯まって色々なことに時間やお金を使えるようになった。お肌の曲がり角だの基礎代謝の低下だのっていう問題もあるけれど(笑)その分美容に使えるお金も増えたから今のほうが髪も肌も手入れが行き届いていると思うし、脱毛もほぼ完了、歯並びは直している途中だけどだいぶ良くなってきたし、体型も悪くない。お仕事も楽しいし、行きつけの居酒屋やお寿司屋さんもできたし、友達もいるし恋人もいる。色んな趣味をかじってみたりして、毎日がとっても楽しい。「大人になるって素晴らしいし、27歳って楽しい!」と心から思っている。

 

確かに若いということは、とっても素敵。若いから似合う可愛いお洋服がたくさんあるし、「女子高生限定」「女子大生限定」なんていう楽しいイベントや特典も多い。私も「女子高生」「女子大生」というブランドの恩恵を受けながら10代~20代前半を過ごし、それをとても実感した。「若い」というだけでちやほやされるし、あらゆることが許されるし、多くのチャンスが与えられた。それはもう、「自分は選ばれし特別な魅力のある女の子なのでは!?」と思ってしまっても不思議ないくらいに。若さって、本当にそれだけですごいパワーを持っていた。

 

それでも私は「今が楽しい!」と心から思えている。

その大きな理由の1つは、「若さって素晴らしい」は「若い方が素晴らしい」ではないと思うから。服であれ趣味であれ、「若い子にしか似合わない」ことがあるように、歳を重ねるごとに「今が一番似合う」というものがあるのだ。10代の頃に似合ってたミニスカートが似合わなくなってしまった頃、10代の頃にはあまり似合わなかった上品な膝丈スカートがしっくりくるようになる。どこのコミュニティ内でも一番年下で「妹みたい」と言われていたのが、年下の子に「年上のお姉さん」という扱いをしてもらえる機会も増えてきたり。私にとってはどれも、1回きりの人生の中で"様々な自分"を楽しめるという嬉しい変化である。大切なのは若さにしがみつくでもなく背伸びして大人ぶるでもなく、だからと言って"歳相応"なんていうことにも縛られすぎず、「その時自分に似合うもの」を楽しむこと。そうすれば自分も楽しいし、きっと周りからみても魅力的な人に映ると思う。

そしてこれも「今が楽しい」と思える大きな理由のうちの1つ、他者から自分に対しての評価や好意を素直に受け入れられるようになって自己肯定感が増したということ。若い時のありとあらゆる素晴らしい待遇は「若いから」であって「私だから」ではないことがほとんどだったと思う。私はそれを強く感じ、卑屈になっていた。どんな待遇も好意も賞賛も素直に喜べず、それはとても孤独な戦いで、そういう意味では若さ(だけじゃないけど、そういう表面上のスペック)が武器であり盾であるのと同時に、コンプレックスだった。「"若い女の子"という枠から出たときに、どう振る舞えばいいの?何が残るの?自分はからっぽな人間なのではないか?」と、ずっと自分を肯定できずにいた。それから少し歳を重ねた今、私は「若さ」というコンプレックスから解放されつつあり(職場の年齢層が高い為、まだ「若い子」として可愛がっていただくことも多々あるけれど…)、以前より卑屈になりにくくなった。なんだか恐れずにありのままで過ごせるようになった気がする。

…そういえば、20代半ばをすぎてもいまだ「妹っぽい」と言われることが多いことに関しては、いつかそのポジションを失った時、私はどうなるんだろう?突然立ち位置や振る舞いを切り替えられるのだろうか…と悩んでいたけれど、友人から「妹みたいに可愛い子は、歳を重ねても”かわいいお姉さん”、"可愛いおばちゃん"になっていくだけだから、そのままで行けばいいんだよ」って言ってもらえたことも、歳を重ねることにポジティブになれたきっかけだったかも。

 

20代後半になってくると、年齢に関していじられることもある。20代である現時点で言われるそれらはまだ冗談交じりな笑い話のつもりかもしれないけれど、「若い方が素晴らしい」という前提のもと、何かしらで「もうババアなんだから」「若い子を僻んでいる」「(未婚なので)売れ残り」と、こちらの意図しないところで一方的に蔑まれたり嫌な捉え方をされたりする。そういうのって、どんなリアクションをしたとしても、もう言われた時点でこちらが惨めな人みたいな空気になってしまうから面倒だし不本意だし傷つく。だけど、そんな低レベルなことで傷ついてしまうのはまだまだ修行が足りないのかもしれない。そんなことにはノーダメージで心から微笑みを返せちゃうくらい、自信がある素敵な大人になっていきたい。だって、年齢という記号だけであれこれ決めつけてくるような相手と同じ土俵に立っていちいち真に受けて傷つくなんて馬鹿らしい。

「27歳なんてババアじゃん」と思っている人にも「27歳なんてまだ未熟」と思っている人にも、「えっ!27歳ってこんなに最高なのかよ!?」と思われるような、最強で最高な27歳になりたい。これは27歳に限らず、これから先もずっと「今の自分が最高!」と思えるように生きたいし、できれば周りからもそう思われるような、そんな歳の重ね方をしたい。

 

今のところ、27歳の自分最高!

さよなら、下北沢。

下北沢はそれなりに好きな街だった。"下北沢で遊ぶ"というようなことはなかったが、ライブハウスや小劇場に行くために度々足を運んでいた。小田急線の古びた駅のホームがとても好きだったし、近代的な高いビルがないのも良かった。ぱっとしないバンドマンや劇団員がたくさん居て、夢を追うことを馬鹿にされない街。胸が熱くなるような青春くさい街。

 

先日、合コンのようなものに参加した。

高校の同級生である友人との予定を済ませた後、「このあとちょっと飲みに行こうよ」とあたかも突発的に思いついたかのように誘われ、連れて行かれた先がそれだったのだ。

 

場所は新宿にある、おいしくてお手頃価格だと評判の店の個室だった。

女性陣は全員私の友人が集めたらしく、センターパートのロングヘアーでハーフ顔メイクのお綺麗なお姉さんが達が3人。彼女らは学生時代の先輩であったり飲み友達であったりするらしく、年齢は私より少し上のようだった。

男性陣は一見「何の集まりだろうか?」と思うような、服装の系統も違うし年齢も違いそうな不思議な人たちだった。話を聞いてみるとやはり彼らは実際に職業も年齢もバラバラで、内2人は下北沢在住、他も在住ではないものの下北沢がホームで、彼ら曰く「下北沢にいくとこの中の誰かしらと会う」らしかった。

女性陣とも男性陣ともそれぞれ趣味や好きなアーティストなど何かしら共通の好きな物があったし、ノリの良い人たちだったのでそれなりに場は盛り上がっていたが、私は内心居心地の悪さを感じていた。

音響の良いクラブはどこかという話題の中で「好きな箱はアトム、キャメ、V2」と恥ずかしげもなく女子大生が行くようなナンパ箱を挙げるアラサー女性陣に私はとても引いていたし、何の話をしていてもすぐに内輪ネタに走る男性陣に相槌を打つことにも疲れていたのだ。

 

終電も近くなった頃、店を出て二次会をする流れになった。彼らは「下北沢で飲もう」と言い出した。

二次会で別の街へ移動するなんて面倒だし、女性陣は下北沢に所縁はなく家からも遠ざかる方向である。何の配慮もない男性陣のその内輪ノリな提案に私は心底うんざりした。しかしすっかり酔って楽しそうな友人の顔をみたら「帰る」とも言い出せず、結局全員で下北沢に向かったのだった。

 

タクシーを降り下北沢の商店街を歩くと、そこらは男女問わず彼らの知り合いだらけで、どこでもそこでも「おー!何してるの?」と立ち話が始まる。

男に関しては私たちにはほぼノータッチのまま男同士で手短に挨拶をする人が多かったが、女はそろいもそろって「この女の子達は?()え、なにやってんの?()合コン?()」という"部外者"に対するマウンティングのようなニュアンスも感じる好奇の目線を無理遠慮にこちらに向けてきた。そんな彼女達からは「男ばかりの中でも気にせず馴染める!全然気にしない!服もやる気ないし!」とでも言いたげな自称サバサバ女感と、その「全然気にしない」風の見た目からもぷんぷん匂う"メスの匂い"が感じられて、とても気持ちが悪かった。ぱっとしない人達が醸し出す性の匂いというのは、どうしてこうも生々しく不快なのだろうか。

 

どこの店に行くかとあれこれ言いながら歩いている中、1人が「こいつの家で飲もうよ」と言い出したのがきっかけで、結局下北沢在住の男の家で宅飲みをすることになった。途中、男性陣の知り合いの女の子ら2人が「終電逃した」などと言いながら酒缶を片手うろうろしていて、その子らも合流し大所帯で彼の家に向かった。

家主が部屋をあけて電気をつけると、玄関にいる私たちを眠気眼でボーッと見ている男女2人が家の中にいた。家主は平然と「あ、同居人!あとその彼女」と言い、みんなは一瞬唖然としたあと「それを先に言えよ!」と突っ込んで笑った。その同居人たちも輪に加わりさらに大所帯となった輪は、床に座りきることができず、私を含む数人はベッドの上に腰をかけるしかなかった。先ほどまで恋人同士が寝ていたベッド。ぐしゃぐしゃのシーツの上。(…またこの感じ)と、私は先ほど商店街を歩いていた時に出会った、性の匂いを漂わすガサツそうな女たちの面々を思い出していた。

 

始発の時間になってもみんなはまだ騒いでいたが、私は1人でその家を出た。まぶしい朝日の中、静まり返った下北沢の商店街を通り抜け、いまだに慣れない小田急線の地下ホームへ向かう。ふとスマホをみると昨晩いつのまにか誰かがつくったグループラインには「あーちゃん、もう電車?気が向いたら帰ってきなよ♪まだ飲もうよー」という連絡がきていた。昨晩のお礼と帰らなくてはいけない旨をあたりさわりなく返信し、電車に揺られながらぼんやりと「ここは私のいられる場所ではなかった」と感じていた。あの場で素直に自分らしく振る舞うことは難しく、仮面をつけているような気分だった。たぶん愉快な夜だったのだと思う。もし自分らしく振る舞っても、誰かが嫌な態度をとるようなことはおそらくなかった。しかし、できなかった。誰のせいでもないけど、だからこそどうしようもなかった。あそこは私が生きられない場所なのだ。

 

下北沢はこれから開発されてどんどん都会的な景観になっていくようだ。私の好きだった景色も既に少しずつ変わってきてしまった。そしてぱっとしない男女が漂わす生々しい性の匂いとつまらない夜に飲み込まれ、私の中で景色以外の何かも変わってしまった。

それなりに好きだった、下北沢。でも"下北沢の人"にはなれない。

あの人たちの「いつものメンバー」にはなれないし、下北沢は「いつもの場所」にはなりえない。こうも悲しくなる程はっきりと「違う」と思うのは久しぶりだった。

 

さよなら、下北沢。