東野圭吾『幻夜』を読んだ

今更ながら東野圭吾の『幻夜』を読了。『白夜行』の姉妹作であることから、2つを絡めて色々と感想を。

(以下、両作品のネタバレあり)

 

白夜行と絡めて考えず、『幻夜』という独立した作品としては面白かったと思う。ただ、白夜行の続編として…美冬を雪穂として読むのならば、この作品は蛇足だったように思う。

白夜行』は、根底に初恋・お互いへの愛情があるからこそ悲しくて綺麗な話だったと思う。どんなに手を汚しても、お互いに他の人と暮らしていても、そこには小学生の頃の彼らがいて身を寄せ合いながら歩いている…そんな物語だった。笹垣が2人をエビとハゼの共生に例えたように"共生"だった。(白夜行のラストシーンの解釈で2人の関係への解釈もわかれるようですが、私は2人が互いに"最愛の人"だったと解釈しています。)彼らの関係性があったからこそ、罪を重ねていくことが物語として深みになっていったと思う。

けれど『幻夜』は、"共生"している2人ではなく"悪女とその駒のうちの1"を描いた悪女物語。『白夜行』とリンクさせることによって考察の幅は広がるけれど、リンクさせずに単品で良かった気がする。私のような視点で『白夜行』を好んでいた人にとっては"白夜行の第二部"としては期待外れだったんじゃないかなと思う。

 

私は雪穂が好きだったけれど美冬は好きになれず、美冬の正体は雪穂なのであろうと思わせるような書き方をされているけれど、雪穂であってほしくない…というのが素直な気持ち。

美冬はあまりにも露骨に悪女くさくて、雪穂のようなスマートさがない。セックス論を語るところや生肉を食べさせるくだりなんて特に知性に欠いており、まるで胡散臭くて気合い任せな自己啓発セミナーのようなノリに思えてしまって…。水原といる時の関西弁や、水原以外にも時々見せる気の強そうな態度を含め、著者が意図的に雪穂のイメージに反するような人物像を描いたのだと思うけれど、色々と必要以上に過激なやり方をとりすぎていて、もはや表に向きの顔ですら、雪穂のように育ちの良さそうな優雅さよりも、"水商売から金持ち旦那をゲットした成金奥様"みたいな感じに思えてしまう。水原への「相談(と言う名の決定事項)」だの「二人の幸せのため」だのと言う口説き文句も、歌舞伎町のホストばりに安っぽくて胡散臭い。巧みな人心掌握というより、脅しに近いようなやり方とハニトラみたいな短絡的なやり方ばかりなんですよね。

 

単なる悪女物語としてはお見事で気持ちいい結末なんだけど、彼女が雪穂なのだとしたら残念でしかない…。

私が手にとった文庫本の『幻夜』の帯には「110万人が慄えた悪女の素顔」と書いてあったけど、美冬が雪穂であるにせよそうでないにせよ、ここには彼女の素顔なんてなかったように思う。気が強い態度も、きつめな関西弁も、あの胡散臭い甘い言葉たちも、すべてはコマを動かすための演技であり、彼女の素顔なんてどこにも明かされていない。

そしてもし美冬が雪穂なのだとしたら…彼女の素顔が見られたのはきっと亮司だけでしょう。そうであって欲しい。

 

そんなこんなで、白夜行"雪穂と亮司の関係ありき"なあの空気がすきだったので、続編・姉妹作としての幻夜は蛇足であったというのが私の印象ですが、白夜行のイメージを壊さないまま幻夜を都合よく解釈するとすれば「夜を照らしてくれていた亮司が居なくなった世界で、1人で暗い夜を生きるための覚悟が雪穂をモンスターに変えた」というところに落ち着くかな…。亮司が命をかけて切り開いてくれた未来を無駄にしない、その未来の続きを自分で切り開いていくためなら手段は選ばない、と。

 

しかし"続編"というにはなかなか上手く繋がらない箇所が多いよね。例えば白夜行のラストシーンから幻夜の最初のシーンに行くまでの期間もすごく短いので、そこまで迅速に雪穂の頃のあらゆることを清算できないよね?という点だったり、新海美冬(本物)のような存在も白夜行には登場しておらず、おそらく浜本夏美がそれにあたるであろうが名前が違うということだったり。そういう点を考えると、幻夜白夜行パラレルワールドのお話として捉えるのが妥当なのかな思う。始まりは白夜行だけど、どこかの分岐点で違う選択をした世界線の雪穂のお話。

3作目もあるか??みたいな空気もあったけれど、もし3作目があるなら今度こそ雪穂や亮司の素顔を見てみたいな。

 

東野圭吾の著書は「これは伏線だから覚えておいてね!」「さっき出てきたやつ、これです!」という調子で物凄く回収しやすい伏線が散りばめられているので、普段本を読まない人にもわかりやすい。ミステリー小説の入口として適切だと思うし、あまり本を読まない部類の人が「東野圭吾は読む」「唯一好きな作家は東野圭吾」というのもなんとなくわかる気がした。わかりやすいだけでなく、それでいてどうともとれるような表現も多いから色々考察できる余地があって、読書が好きな人にもファンは多いのでしょうね。何かとワンパターンなのも言い方を変えれば「らしさ」だものね。

 

若手俳優のカノバレ炎上について思うこと

 若手俳優さんを応援していると、異性関係での炎上は日常茶飯事だ。有名俳優のように「気を付けていたけれど撮られてしまった」ならまだしも、若手俳優のそれは大抵の場合は自らバレるようなことをしてしまっている自業自得のカノバレである。

 

 カノバレでファンが騒然としていると、大抵は外野に「ガチ恋ファンきもい」「彼女くらい良いじゃん」「プライベートは自由」「自分が恋人にでもなるつもりだったの?」だとかファンが悪く言われてしまうのが居た堪れない。多くのファンは「恋人作るな」とか「私が彼女になりたい!」だなんて思っておらず、「年頃のイケメンなんだから彼女の1人や2人居るでしょうね」くらいに思っているし、ステージと客席の越えられない(超えてはいけない)壁をきちんと認識した上で応援しているのだ。それでも、具体的な恋愛事情なんて知りたくない。それは、具体的に相手の顔を知ってしまうと推しの「コンテンツ」としての魅力が半減するからだ。例えばインタビューで恋愛について答える時も、恋愛ソングを歌っても、恋愛モノの演技でも、ふと彼女の顔がチラついてしまうことがあると純粋にそのコンテンツを楽しめなくなる。プライベートを知ってしまうとどうしてもそれがチラつく瞬間があるのは恋愛に限ったことじゃないが、恋愛はそれが特に生生しく感じられるから不快感を覚えやすい。プライベートはプライベートでも、好きな食べ物や趣味や特技を知ることとはコンテンツへの影響が全く違うのだ。婚姻関係を結んで公式発表するか、ペコ・りゅうちぇるみたいにカップル売りしているなら受け入れやすいけれど、そうでないのならいちいち相手の事なんて知りたくないのだ。

 

 カノバレでよくあるのは「匂わせ」である。SNSの内容が双方でかぶっていたり、又は一緒に居る相手が誰だかわかるようなものを写りこませたり、2人の共有物が登場してしまっていたりなどパターンは色々。異性ファンが多いのなら熱愛ネタが喜ばれるなんてことはほとんどないし、場合によっては身近な共演者や事務所にも迷惑がかかる。そんなことは容易に想像できるはずなのに、それを自覚せず自ら匂わせるようなことをファンに発信するという軽率さには本当にあきれる。推し自身ではなくて相手側が匂わせを発信していて推しがそれを咎めずにいる場合も同様である。なぜファンに向けてのコンテンツでファンから疎まれるとわかっているそれを発信するのか理解しがたい。ファンを自身の恋愛においてのスリル・スパイスみたいに扱われているようで大変不快である。

 

 そして信じがたいことに画像流出というのもカノバレのきっかけとしてありがちなのだ。あれに関してはとにかく生理的に無理としか言いようがない。一般人だってイチャイチャしてる写真をSNSに上げたら疎まれるというのに、推しのそんな画像がどこからか流出してきたら、シンプルに気持ち悪い。流出するということは自分たちのデータフォルダだけに留めているわけじゃないということだし。それも記念撮影のような適度な距離感のツーショットならまだしも、イチャイチャチュッチュしてるところやベッドでの写真などに関しては「芸能人なんだから~」とかいう次元じゃなく「なんでこんな写真ん撮ってんの?どういう状況?きも…」という気持ちである。例えるならば駅の改札前でベタベタイチャつくカップルを見ている時、あるいは学校名もフルネームも垂れ流しで「since: 04.01~」とかやってるDQNカップル垢を見てしまった時みたいな不快感。とにかく気持ち悪いからやめてくれ。

 

 カノバレに限らずだけど、推しがこういう軽率な行動で炎上するのって本当に情けない気持ちになる。「私は○○さんが好きなんです」と言った時に「○○さん?ああ、この前あれで炎上してた人ね()」なんて炎上ネタで覚えられてると恥ずかしい。推しを知らない友人が興味を持って検索してくれた時にも、経歴よりも炎上の痕跡の方が目立って出てきてしまう。「この前炎上してたけど大丈夫?」なんて同情されて無駄に惨めになる。

 

 「プライベートは自由」というのは理解するけれど、推しというコンテンツを楽しむにあたり邪魔になるような面はファンに見せるべきでないと思う。自身が商品である以上、プライベートが露呈してしまえば良くも悪くも商品価値に影響が出てしまうのも事実。自ら発信しているならなおさらだ。どうかそのことを心に留めて、これからもキラキラした姿を見せてほしいなと思う。

 

さよなら下北沢

下北沢はそれなりに好きな街だった。"下北沢で遊ぶ"というようなことはなかったが、ライブハウスや小劇場に行くために度々足を運んでいた。小田急線の古びた駅のホームがとても好きだったし、近代的な高いビルがないのも良かった。ぱっとしないバンドマンや劇団員がたくさん居て、夢を追うキラキラした空気と何かを諦めたような堕落的な空気が共存する街。胸が熱くなるような青春くさい街。

 

先日、合コンに参加した。高校の同級生である友人との予定を済ませた後、「このあとちょっと飲みに行こうよ」とあたかも突発的に思いついたかのように誘われ、連れて行かれた先がそれだったのだ。 場所は新宿にある美味しくてお手頃化価格だと評判の居酒屋。男性陣は一見「何の集まりだろうか?」と思うような、服装の系統も違うし年齢も違いそうな不思議な人たち。話を聞いてみると彼らは実際に職業も年齢もバラバラで、内2人は下北沢在住、他も在住ではないものの下北沢がホームで、彼ら曰く「下北沢にいくとこの中の誰かしらと会う」らしかった。

ノリが良い人達だったのでそれなりに会話は盛り上がったが、私は内心居心地の悪さを感じていた。何の話をしていてもすぐに内輪ネタに走る男性陣に笑顔で相槌を打つことにも疲れていたし、音響の良いクラブはどこかという話題の中で「好きな箱はアトム、キャメ、V2」と30歳にもなって恥ずかしげもなく女子大生が行くようなナンパ箱を挙げる女性陣にも言葉を失いそうになっていた。そもそも、合コンだなんて聞いていなかった。

 

終電も近くなった頃、店を出て二次会をする流れになった。彼らは「下北沢で飲もう」と言い出した。二次会で別の街へ移動するなんて面倒だし、女性陣は下北沢に所縁はなく家からも遠ざかる方向である。何の配慮もない男性陣のその内輪ノリな提案に私は心底うんざりした。しかしすっかり酔って楽しそうな友人の顔をみたら「帰る」とも言い出せず、結局全員で下北沢に向かったのだった。

タクシーを降り下北沢の商店街を歩くと、そこらは男女問わず彼らの知り合いだらけで、どこでもそこでも「おー!何してるの?」と立ち話が始まる。男性に遭遇した場合は手短に挨拶をして通り過ぎて行ったが、女性に遭遇するとその度に「この女の子達は?(笑)え、なにやってんの?(笑)合コン?(笑)」という"部外者"に対するマウンティングのようなニュアンスも感じる好奇な視線を無遠慮にこちらに向けられた。そんな彼女達からは「男ばかりの中でも気にせず馴染める!全然気にしない!服もやる気ないし!」とでも言いたげな自称サバサバ女感と、その「全然気にしない」風の見た目からも"メスの匂い"が強く感じられて、とても気持ちが悪かった。ぱっとしない人が醸し出す性の匂いというのは、どうしてこうも生々しく不快なのだろうか。

しばらくはこれまた内輪ノリな店で飲んでいたが、1人が「こいつの家で飲もうよ」と言い出したのがきっかけで、結局下北沢在住の男の家で宅飲みをすることになった。途中、男性陣の知り合いのきゃりーぱみゅぱみゅのような風貌の女の子ら2人が「終電逃した」などと言いながら酒缶を片手うろうろしていて、その子らも合流し大所帯で彼の家に向かった。

家主が部屋をあけて電気をつけると、玄関にいる私たちを眠気眼でボーッと見ている男女2人が家の中にいた。家主は平然と「あ、同居人!あとその彼女」と言い、みんなは一瞬唖然としたあと「それを先に言えよ!」と突っ込んで笑った。その同居人カップルも輪に加わりさらに大所帯となった輪は、床に座りきることができず、私を含む数人はベッドの上に腰をかけるしかなかった。先ほどまで恋人同士が寝ていたベッド。ぐしゃぐしゃのシーツの上。私は先ほど商店街を歩いていた時に出会った女たちの面々を思い出しながら朝を待った。

 

始発の時間になってもみんなはまだ騒いでいたが、私は1人でその家を出た。まぶしい朝日の中、静まり返った下北沢の商店街を通り抜け、いまだに慣れない小田急線の地下ホームへ向かう。ふとスマホをみると昨晩いつのまにか誰かがつくったグループラインには「ももちゃん、もう電車乗っちゃったの?気が向いたら帰ってきなよ♪まだ飲もうよー」という連絡がきていた。昨晩のお礼と帰らなくてはいけない旨をあたりさわりなく返信し、電車に揺られながらぼんやりと「ここは私のいられる場所ではなかった」と感じていた。あの場で素直に自分らしく振る舞うことは難しく、仮面をつけているような気分だった。たぶん愉快な夜だったのだと思う。もし自分らしく振る舞っても、誰かが嫌な態度をとるようなことはおそらくなかった。しかし、できなかった。誰のせいでもないけど、だからこそどうしようもなかった。あそこは私が生きられない場所なのだ。

 下北沢は開発が進み、私の好きだった景色も既に少しずつ変わってきてしまった。そしてつまらない夜とぱっとしない男女の漂わす生々しい性の匂いに飲み込まれ、私の中で景色以外の何かも変わってしまった。 

それなりに好きだった、下北沢。でも"下北沢の人"にはなれない。

あの人たちの「いつものメンバー」にはなれないし、下北沢は「いつもの場所」にはなりえない。悲しくなる程はっきりと「違う」と思った。大森靖子さんの『新宿』の歌詞をお借りするならば「あのまちを歩く才能がなかった」ただそれだけのことだ。

人見知りは「甘え」じゃなくて、1つの性質だ。

最近、「人見知りは甘えだ!」「人見知りだというのは自己保身」という風潮がある。それが「ド正論!」「その通り!」という空気でツイッター上に拡散されているのを見るたびに、私はもやもやしてしまう。まるで「人見知り」という性質の存在自体を認めないような、そんな空気さえ感じた。

※本来「人見知り」という言葉は子供の性質を表す言葉なので大人に対して使うものではないそうだが、あえてここでは「人見知り」という言葉を使う。

 

私は27年間「人見知り」として生きてきた。社会人としてそれなりにちゃんと生活しているけど「人見知りが治った」とは思わない。小さい頃のように母の後ろに隠れているわけにはいかないので苦手なりに努力をしているが、「自分は人見知りではない」と思うのは無理があるし、これは生まれもってしまった1つの性質であるという風に受け入れ、その上で努力するしかないと思って生活している。

 

「人見知りである」と発言することや人見知りという性質それ自体に否定的な風潮が見られるようになったのは、著名人の人見知りに対する見解がSNSやネットニュースで拡散されたりしたことが大きいと思う。私も何度もそのような流れを目にした。アンタッチャブルザキヤマこと山崎さんは、"人見知りの人たちは、これを言ったら嫌われるのではないかと感じ取ってしまい、結果何も言えなくなるという場合が多い。しかしそれは傲慢だ。"嫌われちゃう"ってことは、嫌われていないと思っているということ。嫌われてないと思ってるという傲慢さがある。"というような内容のことを言っていたそうだ。また、最近だと星野源さんという方の見解が度々話題になっている。これは彼自身が「周りに嫌われたくない」という思いからコミュニケーションを放棄し人見知りを自称していた…ということにある日気づいたというお話で、特に拡散されたのは"「人見知りで」とさも被害者のようにいうのは、「自分はコミュニケーションをとる努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言していることと同じだと思った。"という部分だった。これもまた、ザキヤマさん同様に「人見知り」ということが「嫌われたくない」というところからくる傲慢である、という話だ。(星野さんの場合は「自分の場合は」というお話なんだけど、これは抜粋されて拡散されているうちにどんどん「人見知り全般」の話として議論されていた。)これらが「正論」として拡散され、人見知りに対して人格否定に近い言葉をたくさん目にした。

 

私はこれらに同意できなかった。あまりにも身に覚えがなく、この人達のいう「人見知り」と自分のそれとは違う何かなのか?と疑問に思うくらいだった。私は(そしてきっと多くの人見知りの人達は)初対面で話す際に「好かれる」とか「嫌われる」などと考えられるような地点には至れていない。相槌を打つために声を絞り出すのに精いっぱいなのだから。それに、自分を「人見知りである」と伝えることがあったとしても、星野さんがいうように相手に丸投げするような言い方は絶対にしない。それを伝えるのは、緊張により表情がかたくなってしまっていたりうまく受け答えができなかったりして、楽しい気持ちや仲良くなりたいという気持ちが表現できない時。そんな時に「人見知りしてしまって、上手く話せなくてごめんなさい。とっても楽しいんですけど、緊張しちゃって…」などと、自分の受け答えの至らなさを詫びる意味、緊張により態度で示すことが出来なかった気持ちを補足する。もしこれが彼らの言う"甘え"として嫌悪感を抱かれるのであれば不快にさせてしまって申し訳ないけれど。

 

「自分を人見知りだと思わない」「人見知りだと口にしない」とすることで人見知りが解消されるのならそれはそれで素晴らしいけれど、私は自分の性質をなかったことにはとても出来ないので、認めたうえで努力したいと思っているし、これからも必要だと思えば「人見知り」だと口にすると思う。それが私にとって人と向き合う術であり、努力なのだ。こんな私と向き合ってくれて受け入れてくれている友人らに感謝するとともに、私自身も自分が当たり前に出来ることが相手にとってもそうであるとは限らないことを理解し、他人の「得意」「不得意」を軽視しない、想像力のある人間であろうと思う。

ネットでの会員登録・退会のお話

近年は何をするにも会員登録が必要なサービスは多い。なにかをしようとした際に会員登録を求められ、登録無料であれば大して考えもせずとりあえず登録してしまう人も少なくないだろう。

そして多くのサイトは「初めての方(新規登録)」だなんて登録への誘導を大きくしつこく各所にのせているのに、退会となると「退会」というリンクをどこにも貼っておらず、Q&Aの「退会するにはどうしたらいいですか」という質問の回答に飛ばないと退会ページにまでたどり着けないのがデフォルトになりつつある。ひどいところだと

 

今退会すると~が出来なくなってしまいます!本当に退会しますか

退会するのをやめる】

それでも退会する

 

だなんて、引き留めるための無駄なステップを何ページにもわたり用意していたりする。恥を知らないというか品がないというか。退会処理に手間をかけさせたり退会方法をわかりにくくさせることにより退会を防ごうとするなんて、悪質スパムのようで気分が悪い。言葉巧みに部屋に客を招きいれ、出口をふさぎながらセールストークをしてくる悪質な押し売りと同じだ。そんなことはせずに、退会させたくないなら退会したくないと思わせるサービスを提供するべきである。

 

数年前にベルーナ(RyuRyu)で買い物をしたら、頻繁にカタログが送られてくるようになった。女性向けファッション誌のようなそれは、激安というほどではないけれどプチプラと呼べる価格帯の可愛いお洋服が多く載っている。しかし2,3度買い物をしてみたもののどれも届いてみるとガッカリするものばかりだったので(縫製が極端に悪かったり、写真と色味が違ったり、素材があまりに安っぽかったり)、もうここは退会しようと決めた。他の通販会社と比べてもかなり頻繁に届くのでチラシや冊子がたまってしまうのにも困っていたし、IPSAの情報流出(私はクレカ情報の登録はしていなかったので金銭的な被害はなかったが、メールアドレスが流れてしまったようでRaybanのサングラス云々という定番の迷惑メールが毎日くるようになってしまった)以降は個人情報の登録に関して以前より気にするようになっていたので、不要なサービスからはしっかりと退会しておきたかったのだ。

 

Web上で退会処理を行った。ベルーナのサイトのQ&Aから退会手続きのページにとび、自動返信の退会処理完了メールが届いて手続きは終了。これでひたすらカタログを開封してゴミの分別をして捨てるという作業から救われる!と、とても清々しい気分だった。ところが、退会から2か月が過ぎているというのに続々とカタログや会員向けの広告が届いている…。さすがに不審に思い中身をよく確認してみると、なんと「○月○日時点でのお客様の利用可能ポイントは~ポイントです」と、退会日付以降の所有ポイントが印字されていたのだ。たしかに退会手続き完了のメールが来ているしもうログインも出来ない状態になっているのに、どうして会員番号が生かされてるの??ととても混乱し、すぐにお問い合わせ窓口にメールで問い合わせをした。

問い合わせた内容は

「退会処理を完了したはずが、カタログを送られ続けて困っている。同封されていた注文用紙を確認したら退会日付以降も会員番号が生きているようだ。ネット上の手続きだけでは退会は完了していないのか。個人情報が心配である。」

 という旨。

すると翌日には返信が来た。回答を要約すると

「たしかに退会手続きは完了しているが"ベルーナネット会員"を退会したのみで、電話・FAX・ハガキでの注文は可能な状態にある(=会員番号やポイントはこれまで通り生きている)し、カタログも今まで通り発送され続けるようになっていた。今回カタログ不要とのことなのでカタログ発送を止める手続きはしたが、個人情報に関しては電話にて問い合わせてくれ。」

という返答が。私の質問に対してきちんと丁寧に明確に答えてくれて、問い合わせに対する対応としては不快な点はなかった。しかし内容には唖然とした。web上で退会手続きをすることには何の意味もなかったのだ。それだけではカタログも広告も届くし会員番号も生き続ける。ただネットの会員ページにはログインできなくなり、メルマガなどをとっていた場合はそれが届かなくなる。ただそれだけなのだ。私のように退会したつもりで実は退会できておらずに個人情報を預けっぱなしの人がどれだけいることか…!ベルーナに限らず、web上で会員登録をしweb上で退会処理を行うことは多くある。自分が退会済みだと思っていたものが実は「退会したのは"ネット会員"のみで、登録自体はされたまま」ということが他にもあるのではないか…と怖くなった。あるのではないか、というかおそらくあるのだ。今回はカタログが頻繁に届いたから気づいたというだけだ。

 

「サービスが不要になったらこの手順で退会できます」と、退会の案内が登録案内と同じくらいしっかりわかりやすく提示されていたほうが、企業としての誠実さを感じるし安心して登録ができるのではないかと私は思う。登録は誰にでもわかりやすく簡単にできても、退会方法は検索をかけて探したり個々に問い合わせが必要になってしまうようでは、「自分で登録できる人」が「自分で退会できる人」とは限らなくなってきてしまう。スキー初心者をリフトで上級者コースまで連れて行き、「自力で勝手に滑ってきてね~」と言って頂上に放置するようなものだ。

老若男女だれでもインターネットを気軽につかう時代になった今こそ、サービスを提供する側は情報弱者の足元を見るようなやり方で儲けるのではなく「誰にでもわかりやすく」して信頼を築くべきだ。会員登録を簡単にするのであれば、退会方法も同様に簡単にすべきだと私は思う。

 

ちなみにベルーナの個人情報について対応してくださる窓口は平日の昼間しかあいておらず、私は仕事やら何からでなかなか電話をかけられずにいるので、カタログ発送は停止されたものの私はいまだに会員なのだと思う…(笑) 

私は、ここよ。

吉祥寺シアターにてAllen suwaru『空行』を観た。

 

以下、公式サイトによるあらすじ

 

その街は炭鉱であった。

 大きな何かは判らない荘厳な塔のような機械のような古びた建物。

 石灰の匂いと白い埃、希望を求めて人々はほこりを巻きちらし穴を掘り続けた。

その営みの中、少女が産まれた。

 貧しい家族にとってそれは望まれていない生命であった。

ある日、炭鉱と置屋のオーナーであるモトヤマが連れてきたのは、10歳のその少女だった。

 

 「イチカです。何も知りません。色々教えてください。」

 

 少女は教えられた通りに言葉を発した。

 炭鉱夫たちは金を払い少女で自身を慰める。

 少女はモトヤマの息子のヒロトと出会う。

 彼の読む物語を通して、イチカは世界を知って行く。

 彼女の持つ信念を通して、ヒロトは自分を知って行く。

 運命を受け入れる少女と、運命を壊したい少年の心は、どこに答えを見つけるのだろうか...

 

大人って寂しいのよ。だから近くの誰かを求めるの。

でも子供はそんなこと必要ないの。だって一人じゃないってことを知っているから」

 

 

"大人が寂しい"のは、愛を愛だと知ってしまうからなのかな。お金のことばかりのモトヤマが、出て行った妻のことを「金で買うもんじゃねえ」と言った。ミナコだって親の言うことを押し切って愛する人(炭鉱夫)のもとに嫁いできた。あの場所に響いた、ミナコの「自分を」という言葉。愛に触れたことがあるからこそ、寂しかったり強がったり諦めたりしているように見えた。大人は愛を知って、逞しくもなるし弱くもなるのかもしれない。

愛は、好きを包む感じ。伝えるのではなくて、与える。赦す。「あなたを赦します」と言ったイチカは聖母みたいな清らかさで、愛にあふれていた。答えがわかった彼女は「出たい」と思ったのでしょう。

 

來河さんが現実的な話にしたいと思っていたのに対し、脚本家の鈴木さんは希望のある話にしたいと言っていた為、あのような終わりになったということをアフタートークで聞いた。藤田さんはラストを「かけおち」という言葉を使っていたっけ。ドアの外へと踏み出す二人は、確かに希望に向かっているように見えた。けれど何も持たない二人、もう長くないであろうイチカ。「2人で忌まわしい環境から脱出!家族を作って幸せに暮らしました!」というようなことにはきっとなれないし、状況的にはハッピーエンドではないだろう。だけど2人の心情はきっとハッピーエンド。こういうのをメリーバッドエンドというのかもしれない。

水の中で始まるあの会話は、愛を愛だと自覚したあの日の2人の会話が、記憶が、希望が、叫びが、深い海の底に沈んでいったように思えて。お芝居が終わり、客電がつき、波の音とカモメ以外に何の気配もなくて。もうあの2人がこの世界にいないように感じたのだった。

菅本裕子という女。

私はぶりっこが大好きだ。だって可愛いから。

ぶりっこといえばタレントだとさとう珠緒小林麻耶田中みな実など「同性から嫌われる女性の代表格」みたいなところがあるけれど、実際は私のように「ぶりっこ可愛い!」と思っている女性は多いと思う(特に女子校育ちのそこのあなた、そうでしょう?)。女性が選ぶ嫌いな女ランキングにぶりっこ系の芸能人が軒並みならんでいるのは信じられない気持ち。「可愛い女は同性に嫌われるんだよな!」「女同士って陰湿でコエー!」みたいなイメージで面白おかしいランキングになるよう情報操作されているだけではないのか?と疑ってしまう。

 

しかし、ついに現れたのだ。男性よりもむしろ女性から支持されている自称ぶりっこでモテクリエイター(?)の、「ゆうこす」こと菅本裕子

個人的に、彼女からは「モテたくてバンド始めました!」とか言って実際は客が全員暑苦しい童貞男子しかいない汗臭いパンクロックバンドマンみたいな精神を感じる。そんなロックな内面と可愛らしいビジュアルと色々あった過去とがかけあわさり、アイドルでもなく(いや、アイドルだったんだけど)少女マンガのヒロインでもない、恋愛ドラマのヒロインでもない…例えるなら、『グミ・チョコレート・パイン(グミ編) (角川文庫) [ 大槻ケンヂ ]』のヒロイン・山口美甘子のような感じなのです。わかるかな、これ。私にとっての彼女の魅力は本当にこれなのだ。(ちなみにこの本とても暑苦しくて胸がぎゅっとなって…オススメ。)

 

…しかし、そう思っているのは"こっち側"の人間である少数派なのかもしれなくて、一般的に例えばインスタ層とか美容系youtube視聴者とかかわいらしい女性たちの中ではどこが支持されているのか?と私なりに考えた要素は以下の通り。

まず、彼女には「人を蹴落として自分を可愛くみせる」というような陰湿さや、自分を取り繕って無理してぶりぶりしている感がない。その自然体っぽさがポイントだと思う。彼女はファンの女の子達に「一緒に可愛くなろう」と可愛い自分を作るための手のうちを明かすし、可愛くキメ顔したあとに「はい、ナルシスト~」と自分で突っ込みを入れていたりしてバランスをとっているし、コスメレビューは的確でわかりやすく、メイク道具が少し汚れていても「男子!女の子ってこんなもんだから!」とそのまま見せる。ぶりっこ芸を挟みつつも、飾らない自分を上手く出していくことで、女の子から「敵」と認識されずに親しみを持たせることができるのだ。高須先生がこの記事(石原さとみvs綾瀬はるかの美的対決に高須院長「表情美人とズバリ整形してない美人」 | 週刊女性PRIME [シュージョプライム] | YOUのココロ刺激する)で綾瀬はるかさんのことを「女性は“敵か敵じゃないか”も判断の大きな理由だから、安心して心から褒められるタイプの美人でしょう」と言っていたけれど、彼女はこれだと思う。

そして、いつも「みんなのおかげ」という姿勢を崩さずにいて感謝の言葉を欠かさないこと、各方面で話題になりつつある今もファンとの交流を大切にしていて「遠い存在」と感じさせない気さくさも、ファンの心をさらに掴むのだろう。

 

こうして書き出してみて気付いたけど、結局一貫して「飾らない」「気さく」が重要なところで、ぶりっこ要素が支持されているわけではない…むしろ「ぶりっこしながらもそれを軽減させる面も見せてバランスをとることにより好かれている」と言えるに等しいのでは…。というか、ゆうこすは全然ぶりっこではない。結局ゆうこすは「女性ウケがいいぶりっこ」ではなくて「ぶりっこじゃないから女性ウケがいい」のだ。考えてみれば服装だって、ゆうこすがよく着用しているHONEY MI HONEYとかsnidelって男性からみると「??」となる一癖あるデザインが多い所謂"女性から見たカワイイ"の代表格だと思うし。そもそも「男の子が大好き」「モテるために生きている」と言っているしそれも本心だとは思うけれど、彼女のその原動力の根本は男性の目を気にすることよりも「なりたい自分になること」「自分が自分を好きになること」(そしてその結果がモテること)という感じがする。それってモテとかぶりっことか性別とか関係なく多くの人にとって重要なことであり、結局そこなんだな、魅力。

 

ということで、ぶりっこゆうこすの魅力を語るはずがゆうこすはぶりっこというよりロックな人だという流れになってしまった()ので、「好かれるぶりっこ」や「嫌われるぶりっこ」など王道ぶりっこについての記事はまたいつか書きたいな。

 

 

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